『団地のコトリ』(八束澄子)

団地のコトリ (teens’best selections 54)

団地のコトリ (teens’best selections 54)

主人公の美月は、団地に住む中学3年生。母親とのふたり暮らしは経済的に楽ではなく進路にも不安を抱えていましたが、バレーボールに打ちこんでいてそれなりに充実した生活を送っていました。団地には、かつて自治会長を務め団地内の数々の問題を解決して「団地のヒーロー」と呼ばれていた柴田のじいちゃんという老人が住んでいました。柴田のじいちゃんは妻を亡くしてから人格が変わりすっかり落ちこんでしまってひきこもりのようになっていました。美月はある日、ひとり暮らしのはずの柴田のじいちゃんの部屋に女の子の気配があるのを発見しました。その子陽菜は「居所不明児童」、つまり福祉や教育や医療の網から抜け落ちた子どもでした。柴田のじいちゃんは陽菜とその母親をひそかにかくまっていましたが、そんな暮らしが長く続くはずがなく、物語は悲劇に向かって進みます。
タイトルにある「コトリ」には、少なくとも三重の意味が付与されているように思われます。ひとつは、「小鳥」。この言葉には籠の鳥、囚われ人というイメージがつきまといます。陽菜は小鳥を飼っている美月のことを「コトリちゃん」と呼んでいました。美月は最終的に他人に助けを求める力を得たので、これは鳥籠からの解放であると受け取ることができます。しかし美月も「コトリ」ですが、団地の一室に囚われている陽菜の方が「コトリ」のイメージに近いです。
「コトリ」にこめられたふたつ目の意味は、「子取り」です。養育する能力がないのに陽菜を児童養護施設から引き取ってしまった母親は、子ども側からみれば加害者です。また、母娘をかくまった柴田のじいちゃんの行動も美談とはとれません。彼にはふたりを公的な支援につなぐだけの知識も能力もあったはずなのに、それを怠ったのは重大な過失であるといえます。柴田のじいちゃんも子ども側からみれば加害者であり、「子取り」なのです。
しかし、母親も柴田のじいちゃんも弱者側の人間で、加害者と断じて責めるのは酷なようにも思えます。ここで問題になってくるのが、「コトリ」の三番目の意味です。「コトリ」の三番目の意味を推測するヒントとなるのは、カバーの題字です。「団地の」までが縦書きで「コトリ」は横書きとなっています。これが示唆しているのは、「コトリ」は人が静かに倒れて横たわってしまうことを表す擬音だということです。
老いと孤独によって生活能力や判断力が衰えてしまった柴田のじいちゃん、さらに生活能力が低く、精神疾患か軽い知的障害を持っている可能性も考慮に入れてケアの方向性を考える必要のある母親。こういった人々が「コトリ」と倒れ、自力で立ち上がれなくなったときには、公的な福祉が救うべきです。しかし、現政権が堂々と公助の放棄を宣言したことからも明らかなように、この国では弱者のためのセーフティーネットは脆弱なものになっています。
結局のところ結論は政治が悪いとしかいいようがないのですが、タイトルに何重もの意味を持たせて現状を描いたことには意味があります。今の時代に必要な作品であるということは間違いないでしょう。