『強制終了、いつか再起動』(吉野万理子)

強制終了、いつか再起動

強制終了、いつか再起動

私立中学に転校したばかりで学校になじめていない加地隆秋は、家庭教師の大学生のすすめで大麻に手を出してしまいます。そこに、隆秋をYouTubeの動画の素材として使いたいと思っている同級生の伊佐木周五、親戚に麻薬取締官がいるという同級生の麻矢夕都希がからんできて、3人で動画作成をすることになります。
周五は隆秋を素材として利用しようとしています、また周五が夕都希に接近した理由は、夕都希の親が自分の親の仕事上の取引相手だからというビジネス目的。人と人がつながる理由は打算だけというゲスさが、吉野作品らしいです。
ある作中人物は、薬物に手を出した人を包摂すべきであるという思想を語ります。おそらくこれは著者の思想の代弁なのでしょう。現状日本の薬物乱用防止教育は「ダメ。ゼッタイ。」、つまり一度でも薬物に手を出したら人生終了であるという脅しが主流です。それに対するアンチテーゼを出すことには、一定の意義はあるのかもしれません。しかしこの作品は、それが極端から極端にいきすぎて、薬物の怖さが全然みえてこないのが問題です。
同調圧力により薬物を断れなくなる怖さは、描かれています。これは吉野万理子の特性にあっています。ただし、薬物自体の怖さはほとんど伝わってきません。むしろハイになって楽しそうというところばかりで、心身に与える影響の深刻さの描写に具体性が足りません。また、薬物使用者がクリエイター層や裕福なインテリ層に設定されているところも、むしろ薬物への憧れを抱かせるのではないかという危惧が持たれます。
それ以前の問題として、犯罪者を隠匿してなあなあですませようとする姿勢が倫理的にどうかということも疑問です。
わたしは吉野作品を語るとき、毎度のようにゲスさが特色であると述べています。そこに一定の文学的価値を認めています。しかしこの作品の場合は題材が題材なだけに、文学性より教育性を重視して評価する必要があります。その視点で考えた場合、この作品を子どもにすすめられるかと問われたならば、躊躇すると答えざるをえません。