『ランペシカ』(菅野雪虫)

少年チポロが悪い魔物ヤイレスーホにさらわれ監禁された幼なじみのイレシュを救い出すという古典的な英雄譚『チポロ』。ヤイレスーホのイレシュへの恋心と、父の敵討ちのためヤイレスーホの魔力を求めやがてヤイレスーホに惹かれていく少女ランペシカの感情にスポットを当てた続編『ヤイレスーホ』。この2作に続くアイヌ神話をモチーフにしたファンタジーの第3部『ランペシカ』が登場しました。
菅野雪虫といえば現代の社会派児童文学を代表する書き手で、社会システムの悪を見据えつつも希望を謳う物語を紡いできました。しかし、この『ランペシカ』に限っては、虚無感が作品世界を覆い尽くしています。そして、その虚無性にこそあらがいがたい魅力が宿っているのです。
このシリーズのたちの悪さは、前の話をどんどんひっくり返していくところにあります。たとえばチポロの英雄性は、『ランペシカ』では妻子を自分の所有物と見做すような有害な男性性に置き換えられてしまいます。
なにより驚かされるのは、前作『ヤイレスーホ』の、イレシュの苦しみを消すために他人の願いを叶える魔力を持つ石でイレシュの記憶を消すというヤイレスーホとランペシカの悲痛な決断が悪い結果しかもたらさなかったということが、続編『ランペシカ』で暴かれてしまうことです。
『ヤイレスーホ』『ランペシカ』において、万能の力を持つのに他人の願いしか叶えられないというマジックアイテムの設定は、あまりにも残酷な仕掛けになっています。ある意味での自己犠牲をさせることで、ヤイレスーホからイレシュ、ランペシカからヤイレスーホという一方通行の報われない異種間恋愛感情の悲劇性を高める役割を果たしています。ゆえに『ヤイレスーホ』『ランペシカ』は、悲恋物語としては最高の作品になっています。
しかし、苦しみを消したいという善意からの願いだったのに、イレシュの記憶を消すことはその人格を奪うに等しい所業だったのだということが明かされてしまいます。『ランペシカ』のイレシュは、美しくて優しいだけで、人格的な深みのないまったく魅力のない女性になってしまいます。かつてランペシカが憧れた「魔女」のイレシュ・「本当のイレシュ」は殺されたも同然です。
問題はイレシュ個人だけのものではありませんでした。イレシュだけでなくヤイレスーホに関する記憶がランペシカと半神であるチポロを除くすべての人間から消されてしまったため、歴史の捏造が起こるという問題も発生します。

「昔の嫌なこと、みじめだったこと、負けたことは忘れて、自分たちはいつも強くて、間違ったことなんかなかったように暮らしている……」

こういった歴史の修正が悪であることに、議論の余地はないでしょう。
やがて地上から去る神は、こんなことを言い残します。

「人間は、どんな道具も薬も作り出す。いずれ、すべての者にいきわたるだけの糧を作れるようにもなるだろう。だが、それを平等に分けあうことはできない」

富を際限なく増大させることはできても、平等な再分配だけは人類には不可能であると。これをいってしまうことは、社会派児童文学作家としての敗北宣言とも受けとめられかねません。
神も救いもないこの虚ろな物語『ランペシカ』に希望を見出すとすれば、それはカバーイラストにも描かれているランペシカの姿にあります。「魔女」になることを望んだ少女が、人の技術でサイボーグとなったこと。三部作の主人公が女神の子であるチポロから魔物のヤイレスーホを経由してサイボーグのランペシカとなったこと*1。ここで、「女神よりは、サイボーグになりたい」というダナ・ハラウェイの宣言が思い出されます。

*1:三部作の裏の主人公は3人のイレシュであるという見方もできるでしょう。すなわち、チポロ・ヤイレスーホ・ランペシカのそれぞれの視点のイレシュです。この作品をフェミニズムをベースに読み解くなら、やはりランペシカとイレシュの関係が重要になってきます。