『黄色い夏の日』(高楼方子)

言うまでもないことですが、高楼方子は不道徳な作家です。恋のためなら自分を破壊し再構成し無間ループ地獄に陥ることも辞さず、芸術に殉ずることができるならハリネズミの針に串刺しにされることをも望むという、俗世の倫理からかけ離れた美的な世界を志向するのが高楼作品の特色です。生より死、現実より虚構や幻想の世界に誘惑する高楼作品は、間違いなく青少年に有害。であるからこそ最高の児童文学なのです。

かぜにゆれてる かれんなのばな
わたしのすきな きのはなのばな

主人公は中学校の美術部に所属する少年景介。近所の趣のある洋館を描こうとしたところ、その主が偶然祖母と同室に入院していて知り合っていた小谷津さんというおばあさんだったので家に招かれます。景介は小谷津さんから鍵の付いた日記帳を開けるように頼まれたり、不思議な匂いのする部屋でゆりあというこの世のものとは思えない美少女に出会ったり、隣家に住む知的な少女やや子と出会ったりします。少年を異界へと引きこむ魅惑的な道具立てを続々と繰り出す序盤のスピード感が尋常ではありません。年季の入った高楼読者は半ば諦めながら景介に「逃げて~」と呼びかけることになるでしょう。
この作品には、景介の幼なじみで同じ美術部員の晶子という準主人公がいます。彼女はだんだんやつれていく景介を心配して、その原因を探ろうとします。こうなってくると、晶子に景介を現世に引き戻す役割を期待したくなるところですが、読者の思い通りにはいきません。晶子は「有名じゃない人が作ったとしても、いい物はいい物でしょう。たとえ真似したとしてもです。案外、そっちの方がいいことだってあると思います」と、『ココの詩』の贋作屋のような思想を語ります。そして、その芸術作品制作の資金の出所が戦争で儲けたものだったとしても、それを肯定するのです。晶子はまさに高楼的な唯美主義者で、これでは景介を救う役を期待するのは無理というものです。読者は完全に諦めの境地で、景介が美しい世界に溺れていくのを見守ることしかできません。
いや、白々しい嘘をつくのはやめましょう。コアな高楼読者の正体は、ハリネズミの針に串刺しにされながら新たな犠牲者を呼び招く亡者です*1。われわれの真の望みは、新たな主人公、新たな若い読者が「マツリカの園」や「アネックス・バタカップス(離れ部屋キンポウゲ)」などと呼ばれる幻想の世界に沈められることです。
キンポウゲの毒、文学の毒に犯されてしまった以上、無事生還するということはありえません。もしかしたらその引き換えに「選ばれた被害者」の恍惚を得られるかもしれませんが、それが許されるのは選ばれた精鋭だけです。この取引は正当なものなのか否か、それはおのおのが判断するしかないでしょう。

ゆめを見ましょう 春のゆめ
いつかわたしが大きくなったら
白い小さなお舟にのって
知らない国へと ゆーらゆら
(『ココの詩』より)

*1:もちろんこれも嘘で、マツリカの園に選ばれる資格のある者はそう多くはいません。大多数の選ばれない高楼読者は白昼夢でマツリカの園を見ているだけです。