『#マイネーム』(黒川裕子)

自分の名字は場合によっては、"仮"のものなのだ、という"発見"に虚をつかれるものがあった。厳密に言うと、"仮"のものだと他者に思われているのだ、というほうが近い。自分はそんなことないと思っているのに、周囲にあなたの体、半分透けてますよ、と言われるような。

以上の引用は、事実婚状態で出産した松田青子の、区役所に母子健康手帳をもらいに行ったさいに名字が変わる可能性があるから簡単に書き換えられるように自分の名前を鉛筆で書くよう促されたことに対する感想です。この国の約半数の人間の名前は"仮"のものだとされているのです。また、自分の名前を名乗ると「普通の日本人」から命に関わる危害を受けるおそれがあるのでそれを隠さざるを得ない人々が多数存在するのも、この国の現状です。名前をめぐるあれこれは、重大な人権問題です。まずは、重大でありながらあまり正面から語られることのないこの題材に目をつけた黒川裕子の慧眼を称えるべきでしょう。

刺激的で挑発的な作品で、序章からフルスロットルでぶっとばしています。序章で語られるのは、結婚して名前が変わったことに感動して妻が市役所の窓口で泣いてしまったというラブラブな夫婦のエピソードです。その夫婦はなんと、性格の不一致で離婚してしまいます。そのことにより名前が父の姓の坂上から母の旧姓の戸松に変わってしまった13歳の娘明音が、物語の主人公です。
まだ新しい名字になれていないのに、学校では生徒同士に名字に「さん」づけで呼びあわせる「SUNさん運動」なるものが強制されます。ちょうどそのとき、学校の外には自称「最強のブックデザイナー」が経営するブックカフェというアジールができました。そのカフェでは自分が名乗りたい名前を名乗るしきたりになっていました。これに触発された子どもたちは、「SUNさん運動」に対抗して自分の名乗りたい名前〈星の名前〉を書いた名札をつける運動を始めます。
社会運動の熱が、作中の空気を支配しています。ただし、その熱の副作用にも触れているところが誠実です。賛同者が増えると自分たちの意に沿わない者を排除し攻撃するようになるという現実にまで、作品は踏みこみます。このあたりの皮肉な書きぶりは、なかなかスリリングです。
物語の中心となるのは明音ですが、中学生たちはそれぞれ異なる思惑を持って〈星の名前〉を掲げるので、多様な群像がみられます。脳性まひで障害ネタの自虐ギャグばかり言っていた賀来行人は、〈イエスバリアフリー〉と、どストレートな政治的主張を自らの名前にします。長い黒髪がトレードマークで魔女というあだ名をつけられ集団から浮いている伊黒希子は、〈イミなし子〉というやたら自己主張の強烈な名札をつけます。おそらくどんな読者も、1人か2人特別に肩入れしたくなる子を見つけられるでしょう。わたしのお気に入りは、小学校時代は優等生だったけどこの件で学校側に反抗的な態度を示した山尾正です。