作品は、AとXの議論バトルをクライマックスとして収束していきます。この論点は錯綜していて一筋縄ではいきません。
人間はどの時点で、生きるために体を必要としなくなるのだろう。(中略)おれのアイデンティティは、おれの代わりにケーブルを伝って世界中を駆け巡る。体は今や、あとからついてくるものにすぎない。体は出生地というだけで、ホームではない。
(p190)
こういったXの思想は、人が精神のみによって生きられるようになる未来を見据えたSF的な視座に成り立っています。
一方、寄生先の人間にセクシュアリティなどが同化するAは、精神と身体に無知のヴェールをまとったような状態で生きています。これは、多様性の時代のアイデンティティのあり方を思考実験するための設定として機能しており、地に足のついた社会派作品として議論することもできます。
そんなAに対し、Xは自分は男性であるという強固な性自認を持っていて、自らのアイデンティティを大事にしています。精神寄生体であっても、そのあり方は多様で、ひとくくりにすることはできません。
あまりにも議論が複雑なので、作中人物に確固たる正解を求めるような読みかたは、この作品にはなじみません。作中の議論からどれだけのものを引き出せるか、それは読者次第です。わたしはXよりもリアノンの愛の思想の方が怖いような気がするんですけど……。
以下、作品の結末に触れるので、未読の方は読まないようにお願いします。
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それにしても、最後の最後で主人公を差し置いて「真実の愛があるとしたら、どこにある?」「本屋か、文芸フェスに決まってるだろ」で全部持っていくのずるくないですか? 「ぼくたちは、想像していたよりはるかに似てたみたいだね」は、できすぎじゃないですか?