『すこしずつの親友』(森埜こみち)

親友ができないことを悩んでいる「わたし」は、伯母さんに相談します。すると伯母さんは、旅行先でのささやかな出会いの体験を次々と語り、「すこしずつの親友にならすぐにでも出会える」と説きます。
親子や教師と生徒といった大人が責任を持たなくてはならない垂直の関係では、子どもの悩みはなかなか救えないことがあります。そこで子ども向けのフィクションでは、高等遊民めいた自由人(悪くいえば社会不適合者)であることが多いおじが少年を導くという類型が生まれています。北杜夫ぼくのおじさん斉藤洋ぼくのおじさん』、あるいは吉野源三郎君たちはどう生きるか』あたりがその代表例でしょう。『すこしずつの親友』も、その系譜に位置づけられます。
この伯母さんも例にもれず海外旅行経験の豊富な自由人タイプで、終盤にはスビリチュアルな方面にもいってしまう多様な体験談も、どこまで脚色があるのか信用なりません。
伯母さんの友情観は彼女固有のものです。旅先の一瞬の交流でも、それは成立するとしています。すぐには理解しにくい思想ですが、多彩な体験談によって視野の狭い子どもに窓を開いてあげる効果は持っています。バスに乗っている伯母さんに必死で呼びかけて霊峰マチャプチャレの絶景を教えてくれた少年のこと、「ウルルは眺めているのがいちばんいい」とつぶやいていたガイドさん、フランスの美術館で「オーヴェルの教会」を鑑賞して、ゴッホゴーギャンの友情に思いを馳せたこと。
ただし、大人と子どもの思いの間には決定的なズレがあります。子どもはいま親友がいない孤独による苦しみを直ちにどうにかしてもらいたいのであって、遠い未来のことはどうでもいいのです。伯母さんははじめに「すこしずつの親友にならすぐにでも出会える」と保証していたのに、体験談は自由のきく大人になってからの旅行の話ばかりで、「わたし」にとって直接的な参考にはなりません。
もちろん、伯母さんも著者もこのズレは自覚しているはずです。ズレを孕まざるを得ないコミュニケーションのなかで「わたし」がどれだけのものを受け取れたのか、そのあたりにこの作品の肝がありそうです。