『小さな蘭に』(森忠明)

一人称で「パパ」と名乗る童話作家が、幼い娘の蘭に語りかけるという形式の作品です。森忠明は、夭逝した幼なじみの有明との交友を中心とする自身の少年時代をモデルにした私小説風の作品ばかり書いている作家なので、森作品のなかでは異色の作品であるといえます。
語り手の「パパ」は、娘との間にこのような距離を置いています。

ゼロ歳児ひよこ組のきみが、あと十年ぐらい生きると、どこかの本屋さんで見つけて、ママにないしょで読むことになるかもしれない。
この文章には、ナニナニという、というふうに、いっぱい、というというって出てくると思うが、いちいち説明はしないので、わからなかったら、となりで立ち読みしている大人にでもきいてみること。

執筆時点ではなく未来の娘に向けて、子どもにはわかりにくい言葉でも説明はしないという突き放し方をしています。ここでの「という」の用法は、たとえばこんな具合です。

夜、テレビで「夜霧にむせぶ寅次郎」という映画を見ていたら、佐藤B作という俳優が妻に逃げられた役で登場した。

この後、自身も妻に逃げられて蘭とも引き離されている状態だということが明かされ、見事な自虐ギャグとなります。妻は以前、「あなたはわたしと蘭のことよりも、有明さんのことの方が大切なんでしょ」と言っていました。このことと借金が多いことが妻に逃げられた原因ではないかと、「パパ」は分析しています。
ここでは、寺山や三島といった文壇の大スターも、「寺山修司という人」「三島由紀夫という作家」という扱いになります、そして、蘭にミッキーのぬいぐるみをくれた「パパ」の友人が、もしかしたら「三島由紀夫という作家」と一緒に自決していたかもしれないという衝撃の事実をさらっと語ってのけてしまいます。
娘に自分のことを語るにあたって「パパ」は客観的な視点を導入しようとしたのか、女子高校の児童文学研究クラブに取材されたエピソードや、少年院で講演をしたときの少年たちの感想も挿入しています。しかし、女子生徒に部屋の「壁には、有明君の写真だけがかかげられていた」とわざわざ報告させるのは……。少年院の少年の感想では、「森先生のお話は雑な所、ありのままの話をするところに味があると、自分は受けとめました。」というのが、的確な批評になっていました。
しかし作品の中心になるのは、やはり有明のエピソードや、同じく夭逝した高校時代の同級生、「"純文学"と同じくらいバカボンのパパが好きだった」文学少女のU・Iさんのエピソードです。娘に語りかけるという設定なのに、娘の母親のエピソードはほとんどありません。言外で饒舌に語ってしまっています。
未来ある幼い娘に語りかけるという設定の作品は、通常であれば向日性にあふれた未来志向のものになりそうです。でも「パパ」は、作品の最後でこのような叙情的な語りをみせます。

眠くなってきた。
そろそろ寝よう。
寺山修司先生のお墓に足を向けたくないので、北枕でふとんをしく。
先生のお墓は、ここから東へ七百メートルの所にある。電話で話すのが好きだった先生のお墓には、黒い電話機が一台入っているんだ。今晩あたりかかってこないかな。とぼけた有明が、「おめでとうございます」なんて訪ねてくるといいな。

幼子の蘭が象徴する生命力にあふれた未来の世界と、有明や寺山先生が象徴する過ぎ去った死の世界。「パパ」がどちらに親しんでいるのかは、一目瞭然です。ここに森文学の凄みがあります。