『ベランダのあの子』(四月猫あらし)

第20回長編児童文学新人賞入選作。児童虐待をテーマにした作品です。物語の冒頭は小学5年生最後の日。春休みが好きだと無邪気に語る友人に対して、主人公の颯は内心で学校に行けない、家にいるしかないということに怯えていました。そして早くも14ページで、「飛び降りたら」という想像をします。物語開始時点ですでに、いつ最悪の事態に至ってもおかしくない緊迫した状況になっています。
物語の中盤に、小学生たちが刑罰と暴力について論争する興味深い場面があります。颯の友人の理は、合法的に人に暴力を振るう方法はなく現代では身体刑は禁止されているという事実から、「殴られてもいい人間なんて、いないってこと」とします。
ここで、この場面では語られないことに話を広げてみましょう。確かに現代の日本には身体刑はありませんが、命を奪う究極の暴力、生命刑である死刑はおこなわれています。この意味で日本人は、暴力を否定していないことになります。また、死に至るものも含めた自分に向ける暴力も、法では止めることはできません。理の理想論には抜け道があります。作品は、理想論を軸にしつつもそれだけでは対応できない状況に踏みこんでいきます。
颯は、(自分の想像のなかの)他者の目を気にしています。自分の身に起こっていることはニュースで報じられる虐待とは違うのだと規定しながら、そのことを他人に話しても理解されないだろうと思っています。また、「親にたたかれるような、惨めなやつだって思われたくない」とも考えています。颯がまず乗り越えなければならない課題は、他者の目を乗り越え自分が被害者であることを認めることです。
しかしこれは非常に難しい課題です。上野千鶴子の最近の著作にわかりやすい言葉があったので、引用します。

「被害者」を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証です。(中略)伊藤詩織さんが「私は性暴力の被害者だ」と名のることに、どれほどの勇気が要ったかを想像するだけで、じゅうぶんでしょう。*1

ただし、これだけの大きな勇気を出して被害者を名のることに成功したとしても、それはゴールではなくスタートラインに立っただけです。その後の戦いは運にも左右されるという残酷さも作品は描いていきます。非常に重い作品でした。