『ぼくが弟だったとき』(森忠明)

タイトルはもちろんそういう意味なので、そういう心づもりで読みましょう。
森一明少年が、おねえちゃんと過ごした日々の思い出を語ります。近所のおじさんの評だと、「森さんとこの順子ちゃんはきりょうよしだけど、弟のほうははなたらしでひどいなあ」というかけ離れた姉弟です。
次々に語られる姉のエピソードが、どれもかっこいいです。3人の外国人に囲まれてハンバーガーをおごられた姉が、わざわざ弟の分も買わせて恩着せがましい憎まれ口を叩くエピソードから始まり、学校の教職員から「神さまはいるのかいないのか」アンケートをとったり、けんかばかりしている親に腹を立てて家出をしたり。それらのエピソードがすべて、こんなに聡明で美しい子どもは長く現世にとどまっていられないだろうということに説得力を与えます。
森作品は、あとがきも本編です。あとがきの文面を少し引用します。

自己劇化の弊をおそれずに言えば、姉の死とその骨拾いは、幼かったぼくに人のはかなさと生の多愁を予期させた。そして、出棺の日が〈喪失〉の手はじめであり、日をおかず、ぼくは愛者を失うことになる。
小学生時分から「意欲のない森」という烙印を押されつづけてきたぼくだが、「最愛の観客たちが去った地点で意欲をだして何になる」と不貞た言葉を返したい。

森忠明は小説を書くというかたちで読者という観客の前で踊ってみせているわけですが、この発言はその読者に向かって「おまえたちは自分の観客たるに値しない」と言い放っているも同然です。すでに終わっている世界で踊り続ける寂寥に、森作品の魅力はあります。
あとがきはこのように続きます。

死後、姉の〈りんごのしん〉はホルマリンづけとなって病院に残ることになった。
町の写真館の奥には、セピア色に変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラスごしにのぞき見るぼくに、いつも決まった視線を向ける。
その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることでかげりが少しでも薄くなればいい。

リリカルな毒に酔いしれてしまいます。