『だれもみえない教室で』(工藤純子)

小学六年生の教室で起きたいじめが、加害者・被害者・教員の視点から描かれます。
加害者が謝罪して仲直り、握手して仲直り、加害者には反省文を書かせるという愚かとしかいいようのない指導をいまだにおこなっている学校側の対応に、子どもの側からストレートに怒りを表明させています。一方で、教員の側の事情も描かれます。そもそも仕事量が多すぎていじめの対応をしている時間などなく、同僚・校長・教育委員会との関係もめんどくさい。保護者は保護者で、教員に子どもはいるのかと問いただすセクハラを平気でしたり、いじめ加害者に別室指導するのは教育を受ける権利の侵害だと開き直って文句を言ったりで、対処のしようががありません。現代の学校の限界感を重苦しく描き出したのが、この作品の成果でしょう。
ただし、教員の労働環境の過酷さを描きながら、「一番困っているのは、子ども」だから大人が踏みとどまらなければならないという精神論で押し切ろうとしているのは、説得力に欠けます。子どものためという善意と精神論で教員が無制限に仕事を抱えこんでしまったことは、むしろ学校教育をここまで限界状況にしてしまった大きな原因のひとつとして批判すべきことです。
また、いじめ加害者を苦しんでいる存在として描き、まるで被害者にみえるようにしているところも問題です。加害者はいじめを娯楽として楽しんでいるという事実から逃げ、本質的な悪から目をそらしているようにみえてしまいます。
社会派児童文学作家としての工藤純子の美点は、多角的な視点から問題をあぶり出す手つきの確かさにあります。だからこそ、その美点に似つかわしくない軽さや薄さを時折みせてしまうのが不可解に思われます。そこさえ克服すれば、第一線級の社会派児童文学作家になれるはずです。