『あした、弁当を作る。』(ひこ・田中)

中学生のタツキの母親は専業主婦で、なんでも面倒をみてくれます。朝出かけるときには母親に背中を叩かれる習慣になっていましたが、ある日タツキはその行動にゾクッと寒気を感じてしまいます。そのことについて思索するうちにタツキは自分で自分の弁当を作ることを思いつき実行に移そうとしますが、母親も父親もそれに嫌悪を示し、妨害しようとしてきます。
子どもが自主的に家事をしようとしたらまっとうな親であれば泣いて喜ぶはずですが、タツキの両親は異様な価値観でタツキの行動を否定します。特に非行をはたらいているわけでもないのに親から全否定される理不尽さで、読者も胃が痛くなってしまいます。
物語のはじめの方のタツキと友人たちとの会話の場面で、「専業主婦って、何?」という疑問が友人のひとりから出てきます。この作品の舞台となる現代では、すでにそこまで専業主婦の存在はレアになっています。ついでに、共働きでなくても生活に不自由のない収入を得られる家庭もレアであることにも触れられています。ある意味でタツキの家庭は恵まれていますが、それゆえに理不尽度は上がります。
息子と母親の戦いというテーマの児童文学でまず思い出されるのは、山中恒の不朽の名作『ぼくがぼくであること』(1969)でしょう。物語の終盤に「ぼくは、ぼくなんだから」「ぼくはぼくでいたいだけだ」という記述があることから、この作品も『ぼくがぼくであること』をある程度意識してつくられているものと想像されます。
ただし、タツキがしていることは友人と語らって思索を深めることと家事をすること、あとはせいぜい部屋に鍵をつけようとすることくらいで、『ぼくがぼくであること』の家出のような反社会的なことはまったくしません。タツキの静かな抵抗には高潔さがあります。しかし鬱屈はどんどんたまっていきます。このあたり、『ぼくがぼくであること』の時代とは質の異なる重苦しさが感じられます。
とはいえ、この作品は重苦しいだけではありません。弁当をつくることの楽しさは存分に描かれています。少しずつ知識を得て技術をつけていく過程自体のおもしろさ。これをゲームのレベル上げの快楽のように描いているところはひこ・田中らしいです。