『あて名だけの手紙』(野火晃)

佑学社から1984年に刊行された怪奇短編集。どの作品もある種のドッペルゲンガー譚になっていて、分身に運命を支配される理不尽さと薄気味悪さをこれでもかと味わわされます。古い作品なので、結末まで含めて内容を紹介します。ネタばらしを避けたい方は読まないようにお願いします。

絵はがき

弓夫の元にはしばしば、あて名しか書かれていない絵はがきが届きます。はじめて受けとったのは小学校5年生のとき。図柄は観光用の絵はがきのようではなく、裏通りの古びた家なみが写っているだけでした。そして、中学校の修学旅行で弓夫はこれと同じ光景を目撃することになります。大人になって家庭を持ってからもこのようなことが続き、弓夫の神経はどんどん病んでいきます。
最後の絵はがきは妻が受けとりました。そこに印刷されていたのは、弓夫本人のデスマスクでした。その数時間後、弓夫の乗った旅客機が墜落したとの臨時ニュースが流れ、絵はがきの余白にあぶり出しのように差出人の名前が浮き上がってきました。差出人は弓夫本人であったというのがオチになります。
未来の自分から呪いのようなはがきを受けとるという不気味さと、「デスマスク」というワードの強さ、深沢邦朗のイラストのインパクトが、当時の読者に強烈な印象を残しました。

こわいほどの優良児

久竹直広という天才小学生の物語。11歳にしてすでに大学受験の問題に取り組んでいるほどの子なので、学校では持て余され気味です。そんな直広が、居眠りを繰り返すようになります。居眠り中に直広の分身が悪事をはたらき、最終的に家を炎上させてしまうことを示唆して、物語は閉じられます。
あとがきでは著者は、「偏差値信仰、受験最優先の現在の教育環境から、どんなモンスターが生まれ、育っていくのかを追跡していく」と述べています。現在の感覚ではよくわかりませんが、昔の児童文学にはなぜか、勉強ができる子どもを処罰したがる大人の願望が反映されているものが見られます。このあとがきから、勉強ができる子どもはモンスターであってほしいという不可解な願望をもっていた大人がいたということがはっきりとわかります。

ある戦争

健のクラスでは戦争をテーマにしたアニメがはやっていて、先生からは「ほんとうの戦争は、ぜったいにあんなカッコイイものじゃないんだぞ」とお説教されていました。そのアニメの途中で、ソロモン群島で旧日本兵が地元警察と銃撃戦をしたとの臨時ニュースのテロップが出て、健は急にアニメに冷めてしまいます。不可解なのは、その旧日本兵の名前が、そこに出征してなんとか復員できたはずの大おじの名前と同じであったことです。
健の父は、「(戦中派の人々は)ひとりひとりが、残存日本兵を、どこかのジャングルにおきざりにしてきているのじゃないか」とうまくまとめてくれます。が、それにしても回避したはずの死が再び襲ってくるという大おじの運命はあまりに不条理です。

いつか見た顔

簡単に要約すると「時尼に関する覚書」の時尼が自分の分身であったという話です。「わたしと、あの人とは、時間を逆行する、きみょうな双生児! すれ違いに生きる、影と光!」。恐ろしいホラーばかりの作品集でしたが、最後は美しい円環で閉じられます。