『ひげよ、さらば 下』(上野瞭)

おれは片目。
ヨゴロウザはおれが選んだ相棒だ。
「もう眠りの時間は終わりだぜ」

出会いが引き寄せるのは理想か現実か…………。
――さらば、猫たちの叙事詩
(新装版下巻カバー袖より)

カバー袖にこのセリフを引用するの、悪意としか思えない。
日本児童文学史上最重量級*1の作品『ひげよ、さらば』の三分冊新装版の下巻。ここからは怒濤のトラウマ連撃です。今回は、四大トラウマ要素を中心にこの作品の魅力を探ります。中巻と同様ネタばらしには配慮しないので、未読の方はご了承お願いします。

マタタビ

三分冊構成だと、下巻はヨゴロウザがマタタビに酔って幻覚をみる場面から始まってしまいます。独裁者として猫たちに過酷な訓練を強いながらも、どこか冷めていてマタタビのことを考えている孤独な薬物依存症の主人公は、ほかの児童文学ではまずみられないでしょう。体が火柱となり爆発して四散する幻覚には解放感がありますが、意識が戻ったときの反動の苦しみもしっかり描かれています。

マタタビの たびたびの旅よ
そのたびに くずれし猫の
このたびの 物語
聞くたびに 悲しや
思うたびに おろかしや
歌うたびに さびしや  

食中毒

下巻のメインは。狡猾なタレミミをリーダーとする犬の軍勢との戦争です。雪のなかの戦闘には、美しさと凄惨さが同居しています。ヨゴロウザ・片目・学者猫の三匹が六角堂の上で犬たちに包囲される場面の緊迫感、そして学者猫の最期……。

小さな白いくもの巣を思わせる結晶体は、黒いしみのようにわきだしてきた。それは地上近くまで舞いおりると、ふいに氷の花に変わり、みるみるうちに大きくなった。そして、ヨゴロウザの体の中にしみとおっていった。一つの結晶体は消え去る前に、つぎの結晶体が姿をあらわし、その背後にもその背後にも別の結晶体が降下を続けていた。(中略)結晶体は巨大な花だった。花は六方に走る細い軸を持ち、その先端に六ぴきの猫をとまらせていた。

しかし、その緊迫感漂う死闘のなかで猫の集団が走りながら円陣を組み犬をなぎ倒すギャグのような必殺ローリング猫嵐が繰り出されるのには、どう受けとめるべきか悩んでしまいます。
最期の戦い、宝物殿での籠城戦は、犬が集団食中毒で自滅するというあっけない結末をむかえます。中巻での戦いが大蛇の乱入で決したのと同様、イレギュラーなことによる勝利はかえって不条理感が高まり、苦い後味を残します。

介護地獄

ところで、宝物殿での籠城戦の最中、片目が認知症のようになってみんなを困惑させたことも、強烈な印象を残します。ヨゴロウザのマタタビによる恍惚が、今度は片目で変奏されます。夜中にヨゴロウザを起こし、自分の身欠きニシンを盗んだやつがいると訴える片目。ヨゴロウザが片目の腹の下から身欠きにしんを引きずり出してみせると、「やっぱりだれかがかくしていなんだな」と言う片目。いかんともしがたいです。
ただし、片目が嘘つきであることを考えると、これは詐病ではないかという疑惑も浮かんできます。一方で、「ひげよ、さらば」とはすなわち老いの物語であると考えると、素直に受けとめるべきとも思えます。
どちらにせよ、この状況で片目が「ナナツカマツカ共同体」の夢を大いに語り出したことには耳を傾けるべきです。ここで片目が猫の共同体をつくろうとしたのは犬に対抗する目的が主眼なのではなく、共同体をつくること自体が目的だったのだということがわかります。この理想は、猫たちには全く理解されません。片目の夢は公共を志向したものではなく、個人的な夢にみんなを巻きこんでいただけであったことが明確になります。この片目のエゴイズムが、最後の破局を導きます。

監禁炎上無理心中

猫たちが宝物殿から去ったのち、片目はヨゴロウザを新たな旅立ちに誘います。理想が破れても、相棒ふたりが旅立つのならそれはそれできれいなハッピーエンドになりそうです。片目はヨゴロウザに、「ヨゴロウザ、おれがこれまで、おまえにでたらめをいったことがあるかね。そうだろ、おれはいつだって、おまえのためになるように事を運んできたつもりだ」と、優しい言葉をかけます。いや、待って、このセリフ事実と全然違ってない!?
ということで、大長編地獄絵巻『ひげよ、さらば』もいよいよ最終局面に入ります。片目はヨゴロウザを騙して人くらい夜叉堂*2の祭壇に閉じこめ、ろうそくを倒して火事を起こし無理心中を図ります。自分の夢に他人を巻きこんで死に至らしめるのは、利己主義の極みです。しかし、片目はたったひとりの相棒としてヨゴロウザを選んでいるので、やはりここは利己的ではあっても愛の物語であると読みたいです。

(お、おまえの夢は、お、おまえだけのみるものだったのか! ば、ばか野郎!)*3

ヨゴロウザは内心でこう叫びます。実はヨゴロウザも片目と同じ夢をみられる可能性があったのだというが、最後の最後に判明します。ここに気づけなかったことが片目の最大の失策でした。やはりこの作品は、愛の物語であると読むべきでしょう。

エピローグ

しかし、まだまだこの厄介な物語は終わりません。ここから作品の様相は完全に混迷します。エピローグに登場するのはひげなし猫と泥まみれの猫、老いたヨゴロウザと歌い猫です。中巻でヨゴロウザがもっとも憎んでいた歌い猫とのカップリングが成立するのには、意外性があります。第22章の「爪と歌と」が、「歌と歌と」に変化します。
ヨゴロウザは若い猫に向かって過去の経験を語りますが、「信じられない」「迫力に欠けている」とさんざんな批評を受けます。歌い猫はヨゴロウザにこう語りかけます。

「ヨゴロウザよ、今の歌は失敗じゃ。どうも調子が暗すぎるよ。わしはな、もうちょっとましな、今の猫どもが耳をかすような歌を作らにゃならん。そう思っておるのよ。もちろん、歌の題名だけは決まっておるぞ。そいつはな、〈ひげよ、さらば〉という歌なんじゃ」

我々が読んだこの物語がヨゴロウザの語った思い出話なのだとしたら*4、それは否定されるべきもので、本来の〈ひげよ、さらば〉はこれから創造されるものだということになります。ひげはいずれ消え去り、すべては未来に向かって照射されます。

まなこを開けば煙となる
なりにけり 煙に
まなこを閉じればあざやかに
見えにけり ありありと
どこかのじいさまに
ひげのあった時代
砂の縄張り 砂の猫
砂のとりで 砂の丘

*1:物理的にも感情面でも。

*2:いまさらだけど、上野瞭のネーミングセンスは天才すぎないか。

*3:ただしここは初版から大幅に書き換えられている部分で、初版では(おれは、だれかのために生きているんじゃなく、おれのために生きているんだから。いや、おれだけじゃない。おれたちはみな、だれかを踏み台にしてはいけないんだ)となっていた。詳しくは『上野瞭を読む』(創元社・2020)の三宅興子の評論を参照してください。

*4:だとしたら、これは実質一人称小説になり、作中での片目像はヨゴロウザの解釈だということになってしまうんだけど、え?