『ステイホーム』(木地雅映子)

コロナ禍で一斉休校となった時期の、賢い子どもの物語。小学5年生のるるこは、口に出しては言わないけれど、内心で「コロナ……ありがとー!」と叫んでいました。学校から解放されたるるこは、コロナで仕事がなくなってるること母が暮らしている家に転がりこんできたおばの聖子さんと、家のリノベーション作業に励みます。
自分の居場所を整える作業は生きることの根幹に直結するので、明瞭にやりがいが得られます。壁を破壊しいったん家をめちゃくちゃにすることにも爽快感があります。破壊から秩序を再創造するという神話的営みといっても大げさではないでしょう。木地雅映子の初期短編「天上の大陸」*1にも、廃屋からの分捕り品で洞窟のなかを「部屋」にする少女が登場していました。木地雅映子作品といえばまず知性が先走ったキャラクターが思い浮かびますが、それと同時に生活も大事にしてることも見逃してはならないでしょう。
そういった楽しさを存分に語りながら、賢い子どもが学校で苦しめられている様子も描いていきます。藤野恵美の近作『ギフテッド』に「頭のいい子は、マイノリティ」というセリフがありましたが、吹きこぼれているがゆえの苦しみは、決して軽視できるものではありません。木地雅映子はデビュー作から賢い子どもが学校で口を塞がれている様子を描いていました。学校文化のなかでは知的なことを言うと排除されてしまうため、賢い子どもは自由な発言が許されません。

「あそこはべつに、新しい知識を教えてくれるところじゃなくて……。逆に、子どもがよけいなことを考えないように、おさえつけておくためにこさせる場所なんだなー、って」

るるこはこう聖子さんに吐露しますが、聖子さんがそれを全肯定すると逆に引いてしまい、危険思想に染まりそうになる自分がこわくなります。るるこもそれだけ学校に洗脳されていたわけです。そして、聖子さんの導きで「心の中は自由」であることを受け入れていきます。段階を踏んでいるので、聖子さんから衣装箪笥の使い方を教わる場面の解放感は相当なものになります。
もうひとつこの作品の危険なところは、共助という甘い幻想を叩き潰しているところです。共助や助けあいというと聞こえはいいですが、実際のところ負担は一部の人に偏りがちになるもので、それならば負担の押しつけは加害にほかなりません。手を差し伸べてしまった方が、万人受けする美談にはなるかもしれません。しかし、手を差し伸べることは、加害を受け入れることと同義になります。木地雅映子は虐待加害者にケア的役割は女性がすべきであるという性差別発言をさせることで、これが加害であることを明確にし、わかりやすい美談にする道をあらかじめ閉ざしています。この周到さがすばらしいです。
コロナという大きなモチーフやかわいらしいイラスト・装丁で作品の危険さを覆い隠しているのもいいですね。どうか届くべきところに届きますように。

*1:初出「群像」1993年12月号 単行本『氷の海のガレオン』(講談社・1994)に収録