『キノトリ/カナイ 流され者のラジオ』(長谷川まりる)

へたくそな積み木みたいにつみあげられた無数のコンテナからなる孤島キノトリ区を舞台にしたディストピアSF。コンテナの上層は豊かで下層は貧困にあえいでいるという面ではわかりやすい階層社会になっています。現代の日本と地続きの世界でありながら人々がそれとはかなり異なった価値観を持っているという設定が目を引きます。家族形態は現代日本から変化し、血縁に関係なく少しでも気が合えば家を共有していて、二人暮らしのカップルや一人暮らしの人は変わり者扱いされています。主人公のキューは公務員である配達人をしています。しかし、荷物を勝手に開けて着服するのは日常茶飯事で、倫理観は完全に崩壊しています。
そんなキューが誤配をきっかけに、上層階に所属するところてんみたいな声の怪しい男トガキと関わるようになり、彼の陰謀に巻きこまれていきます。
作品の端々で、著者の言語センスが光ります。著者のTwitter上の発言*1によると、「ところてんみたいな声」とは人気声優の石田彰をイメージしているとのことで、言われてみればぴったりな表現です。また、ガジェットをあらわす作中用語も独特です。キノトリ区の人々が使うタブレット端末は「カワラ」と呼ばれていて、電子通貨は「糸目」です。現実とつながっているけどだいぶねじれた未来になってしまった感が出てきます。めんどくさいのが、カワラで糸目をやりとりする際、有線で接続しなければならないということです。つまり、キノトリ区は無線のインターネットから隔絶されていて、外の世界の情報も遮断されているのです。そこに「ルーター」を持ちこもうというのが、トガキのたくらみでした。
という発端からは壮大な冒険譚になりそうですが、作品はキノトリ区内の人間模様の機微に丹念に迫っていく方向に進みます。主な線は、キューと彼がひそかに尊敬している老女タマちゃんの関係、義足の女性サクラとその婚約者の男性ショウと義肢装具士の仮面の女性ミケの関係、正体を隠しラジオでのみ歌声を披露する女性メリーとその熱心なファンの男性クロの関係の3本です。これが、あまりに突き抜けた正義感の暴走であったり、異性間の救いようのない支配関係やディスコミュニケーションであったり、陰鬱さを突き詰めていきます。
たとえば、サクラとショウの関係。ショウは経済的な理由などを口実に、サクラの義足の性能を落とそうとします。これは、移動の自由を奪って支配しやすくしようという邪心でしかありません。そして、自分が男性であるというだけでいばって専門職のミケを侮る言動を繰り返すマンスプ仕草をします。どう考えても別れるという選択肢しかないタイプの男性です。このあたりの描き方は練られていて、韓国のフェミニズム文学のような重苦しい読み心地でした。そのうえで、一方的に男性を断罪するだけでなく、ショウが献身的で愛情深い恋人であったということも一面の真実であり、ショウの悪い面ばかり目につくのはサクラが別れる理由を探しているからだということにも触れる複雑さを持っています。
人間の描き方は一流です。では次に、ディストピアSFという側面から作品をみていきましょう。ここで補助線になりそうなのは、ディストピア児童文学の金字塔である上野瞭の『ちょんまげ手まり歌』(理論社・1968)です。これは、外界から隔絶されて「やさしい藩」という狭い社会の身分関係のなかでのみ生きている人々の物語です。これは、上下のみで横の視点のないキノトリ区の住人に似ています。村瀬学は、藩の外と内の境界にいる山んばは「情報」の形象化であると指摘しています*2。この作品でも山んばのようなタマちゃんが横の世界とのはざまに立っていますし、トガキが持ちこもうとしているルーターは情報そのものです。そのほかにも、足の不自由な人や薬物など、『キノトリ/カナイ』と『ちょんまげ手まり歌』には共通する要素がいくつかみられます。よって、日本のディストピア児童文学の正統な系譜にある作品であると位置づけられそうです。それを参照したうえで、主人公キューのキノトリ区への思いや彼に与えられた選択肢の意味などから『キノトリ/カナイ』の独自性を読み解いていくとおもしろくなりそうです。

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