『尊敬する人はいません(今のところ)』(中山聖子)

小学六年生の若羽と慧と、それぞれの父親の物語です。慧の父親はテレビにも出ている有名弁護士で、家でも勉強したり体を鍛えたりしている真面目な正義の人でした。若羽の父親はフリーダムな人で、いまはあやしげな健康器具の販売をしています。
この作品で描かれているのは、あからなさま暴力や暴言のような虐待はしなくても子どもの尊厳を傷つけている親です。インチキ健康器具で商売することは人を医療から遠ざける危険性があり、明らかに社会に害をなす商売であるといえます。実際作中でも父親が原因のひとつとなって近所の老人が病気になってしまいます。親が尊敬できない仕事をしていることは、子どもの尊厳に関わる問題です。
ただし、作中では若羽の父親の悪人とは言い切れない側面も描いていきます。父親が実演販売している場面を目撃した若羽は、インキチで大嘘つきであるとしながらも「お客さんたちは、すごく楽しそうだった」という点は評価します。それも詐欺師のテクニックではあるんですけど。
物語の序盤、塾をサボって公園にいた慧は、偶然若羽の父親と遭遇します。変な銀色の棒を振っている若羽の父親はどうみても不審者でした。しかしこの場面で慧に同情し銀色の棒をくれた行動は、児童文学に登場するよい不審者*1の挙動です。実際に慧にはよい影響を与えています。
一方、慧の父親の長所は、正論で人を追い詰めるという短所に転じることもあります。慧がムー的趣味を持つ友だちの影響でエイリアンの想像図などを描いていることを知った父親は、「根拠もないようなことを信じるのはとても危険」「妙な団体に入ったり、だまされて高額なものを買わされたりして、たいへんなことになった人たちが大勢いるんだ」と説教し、結果として慧はその友だちと疎遠になってしまいます。この父親の説教には反論したいけど、実際作中に人をだます悪人が出てくるので反論しにくいところがたち悪いですね。
受験のための面接対策をしている慧が尊敬する人はいないと主張する場面は、気軽に他人の内心に立ち入ろうとする者への怒りが表明されていて、胸を打ちます。

そういうこと、簡単に聞かれて口にするたび、僕が僕じゃなくなっていくような気がする。自分の気持ちの、すごく浅いところで思いついたことだけが現実になって、もっと本当の、心の奥にあるものは置いていかれる。僕はもう、いいかげんなことは言いたくない。そうじゃないと、やっとわかりはじめたことまで台無しになってしまうから」

若羽と慧がそれぞれ父親から決定的な一言を受ける場面が、作品のひとつの収束点になります。180ページの若羽の父親のセリフは、もうこの人と暮らすことは無理であるということを確定させます。
205ページの慧の父親のセリフは、素直に読めば和解の可能性を示しているととれるでしょう。ここであえて、あれも決裂のセリフであるという読みも提示したいです。一見本音を言っているようにみえるあれは、父親が慧のことを諦めて実の息子に対しても外ヅラで接することに決めたということです。あのタイプの外面完璧人間は、身内に対してもそういう冷酷なことができてしまうものです。

*1:児童文学に登場するよい不審者って何?  ソラモリさんみたいなやつ。