『悪魔召喚! 2,3』(秋木真)

悪魔召喚! 2 (講談社青い鳥文庫)

悪魔召喚! 2 (講談社青い鳥文庫)

部室の件という弱みを握られてしまったため、すっかり生徒会の使い走りにされてしまったオカルト同好会。2巻では、生徒のあいだで流行している降霊術系の占いについて調査するよう命令されます。その占いは、的中率は高いが占ったあと体調が悪くなるというリスクのあるものでした。
その解決法が、現代的です。オカルト同好会はその怪異と正面から戦おうとせず、危険な占いはやめるように生徒を説得しようともしません。その代わり、リスクのない新しいルーン文字を使った占いを捏造して、流行を上書きしようとするのです。人々が不適切な娯楽に耽溺するなら、より安全な別の娯楽を提供しようという、実に現実的な対応です。いかに人心を操作するかというレベルでの、戦略的な闘争が展開されます。
悪魔召喚! 3 (講談社青い鳥文庫)

悪魔召喚! 3 (講談社青い鳥文庫)

3巻ではオカルト部時代の先輩が登場。吉兆でもあり凶兆でもあるという「銀髪の少女」が出没する海辺の町に連れていってもらいます。
ウロボロスの模様を手がかりにオカルトのロジックでするすると真相に近づいていくさまが気持ちいいです。それでいて、一般人向けにはパフォーマンスとして供養をするという解決を提供します。
このシリーズはミステリの構造になっているようですが、オカルトと一般向けの二段階の解決を用意しているところが興味深いです。

『地底大陸』(蘭郁二郎)

地底大陸 (レトロ図書館)

地底大陸 (レトロ図書館)

夭折の天才作家蘭郁二郎のジュヴナイルSF『地底大陸』*1が、河出書房新社から復刊。
女性と見まごうような美少年雪彦は、大科学者寺田博士の助手として大陸探検隊に同行し、蒙古の奥地を探険していました。鉱脈を探していた一行は、思いがけず広大な地下国に迷いこみます。ところが、R国の秘密結社ゲーウー団の男装の少女指揮官アスリーナも潜入していて、地下国で騒動を引き起こします。
超科学力を持つユートピア探訪物語として魅力的です。地下国は人工太陽や人工雨で気象をコントロールしていて、空気鉄道や電磁鉄道といった交通網も発達、人造人間までいるという夢のような世界でした。いま読んでもこれだけわくわくするのに、当時の少年少女たちはどれほど胸を躍らせたことでしょう。
地下国がインカ帝国の末裔で、インカが侵略されたとき偶然流れ着いた日本の武士に助けられたので日本人の血も流れているというような大日本帝国万歳要素は、時局を反映しています。となると、地下国は日本の探検隊にとっては仲間ですが、R国のアスリーナにとっては敵国になります。こうなるとむしろ、少数精鋭の部下とともに超科学力を持つ敵国でその技術を乗っ取って祖国に貢献しようとするアスリーナの冒険心と愛国心が輝いてきます。人間タンクを皮切りに地底の超兵器を我がものにして暴れ回るアスリーナの勇ましいこと。この作品、すごくおもしろいんだけど、敵側の魅力に主人公側が釣り合っていないのがちょっとした瑕疵になっています。

*1:初出は『小学六年生』1938年4月号~1939年3月号

『ぼくらの一歩  30人31脚』(いとうみく)

ぼくらの一歩 30人31脚

ぼくらの一歩 30人31脚

30人31脚に参加することになった小学6年生3人が語り手を務める作品です。
はじめの語り手は、6年生の2学期に突然転校してきた水口萌花。萌花は謎の歓迎ムードにとまどわされます。実は転校してきたクラスは、30人31脚に参加しようとしているものの、人数がひとり足りないために参加資格がなく困っていました。そこへ最後のひとりとしてやってきた転校生は救いの神だったのです。ところが萌花は足が遅く、救世主であると同時にお荷物でもあるという微妙な立場に立たされてしまいます。
競技自体の危険性や過剰に連帯責任を求めることなど、30人31脚の欠陥はいくらでも挙げることができますが、見逃せないポイントはここにあります。30人31脚のタイムが選手のうちでもっとも足の遅い者のタイムより速くなることはありえません。タイムに関する責任がもっとも足の遅い者、もっとも弱い者に集中するという残酷な仕組みになっているのです。このポイントを的確に突いてくるとは、さすがはいとうみく。いままで子どもに対する人権侵害問題に鋭く斬り込んできた作家だけのことはあります。
次の語り手は、学級委員長の中谷琴海。彼女は幼なじみで30人31脚のキャプテンである蒼井克哉に好意を抱いていました。そんな彼女がタウン誌の記者から取材されることで、この出来事が何層もの物語で成立していたことが明らかになります。
まず、30人31脚という競技自体が背負っている物語。記者はそもそも30人31脚はテレビ局の企画であったという前提情報を確認します。つまり30人31脚の本質は見世物であり、教育活動ではなく、スポーツですらないのです。そこにあるのは観客の求める物語です。
琴海は記者に語ることで、大人向けの物語を再構成します。6年生の最後の共同活動であり、卒業と同時に転校していく克哉へのはなむけでもあると。これは、クラスメイトが共有している物語とも一致します。
ただし、琴海にとってもっとも重要なのは、自分と克哉の恋愛物語です。琴海は個人的な目的のために、クラスの物語を乗っ取ろうとしているのです。第2章では、物語を操作する者の邪悪さという問題提起がなされます。
そして、最後の語り手蒼井克哉。彼の興味の中心はタイムを縮めることで、自分を含めたクラスの人間を能力値でしかみていません。この作品では、語り手となる3人以外のクラスメイトの顔がほとんどみえてきません。能力値と、ここで文句を言うここで足を引っ張るという役割があるだけです。それはすべて、30人31脚のために奉仕するものでしかありません。小学校生活で最後にみんなでおこなう活動という建前は、まったく価値のないものとなっているのです。
このように、さまざまな観点から30人31脚の悪辣さを暴き立てた作品となっています。



さて、おわかりのとおり以上の文章は皮肉です。著者がtwitter上でこのような発言*1をしていたので、かように問題の多い30人31脚を「頑張る子どもたちを応援」という姿勢で支持する児童文学作家がいるのであれば問題であるとの考えから、このような書き方をしました。
ただ、一点だけ引っかかるポイントもあるのです。それは、30人31脚の出場資格を見逃していたことなど、クラスを揺るがす空気の読めない言動を繰り返していた担任の存在です。このトリックスター的なキャラクターを著者が計算尽くで運用していたとしたら。著者のtwitterでの発言はフェイクだということになり、上記の読みもあながち的外れとはいえなくなるかもしれません。

*1:

『四つ子ぐらし 1  ひみつの姉妹生活、スタート!』(ひのひまり)

四つ子ぐらし(1) ひみつの姉妹生活、スタート! (角川つばさ文庫)

四つ子ぐらし(1) ひみつの姉妹生活、スタート! (角川つばさ文庫)

第6回角川つばさ文庫小説賞特別賞受賞作。生まれてすぐに捨てられて施設で育っていた宮美三風の人生の転機は、小学校卒業直後に訪れました。国の福祉省による「要養護未成年自立生活練習計画」とやらで、子どもだけでひとつの家で生活することになったのです。しかも、同居相手はいままでお互い存在すら知らなかった一卵性四つ子の姉妹。「みんな同じでみんなちがう」頼れそうな長女の一花・明るい関西弁次女二鳥・おとなしい四女四月との新生活がスタートします。
「私……一人で生きていけるのかな。一人で生きて……ひとりぼっちで、死んでいくのかな」というどん底の精神状態からの大逆転。優しい姉とかわいい妹(みんな自分と同じ顔だが)ができて、三風は舞い上がります。

やった、やったあ……! お姉ちゃんと、普通に話せたっ。
優しくて、たのもしいお姉ちゃんの、となりの部屋になれた!

という調子で、あらゆる瞬間が感動の嵐になります。中学校の入学式に家族が立ち会っているというだけのことでも、天涯孤独だった三風には特別なこと。うれしさを素直に表明する三風の言葉は非常に好感度が高いです。
第1巻はひとりだけなかなか打ち解けない四女の問題に向き合って終了。オチで新生活がさらに楽しくなりそうな要素を付け加えてくれました。次巻を読みたいと十分に思わせてくれる内容だったので、シリーズものの第1巻としては上出来です。花鳥風月の四姉妹の今後が期待されます。
さて、この作品はとてもかわいくてハッピーな話なのですが、よく読むと不穏な要素も見え隠れしています。たとえば、一卵性なのに生育環境の違いから一目見てすぐわかるような体格差が生じているとか、残酷な現実も描いています。それぞれの詳しい生育歴は明らかになっていません。元気な次女がデパートで家族連れを見て表情を曇らせる場面などは、過去への不安を煽っています。
四つ子はみんないい子たちなのに、登場する大人はうさんくさい人物ばかりです。誘拐犯はもちろんのこと、「要養護未成年自立生活練習計画」を進めている国のえらい人が怪しいことこのうえない。この計画に大企業がからんで多額の寄付をしているという癒着構造も心配ですし、姉妹への「君たちはもう一人じゃないんだから」というはなむけの言葉も、「だから国は君たちを見捨てるよ」という含みを感じさせます。

夜カフェ(1) (講談社青い鳥文庫)

夜カフェ(1) (講談社青い鳥文庫)

青い鳥文庫での倉橋燿子の新シリーズ「夜カフェ」と比較して、令丈ヒロ子が次のように論じていました。
民間がつくりきちんとした大人も関わっている「夜カフェ」は、子ども食堂定時制高校のような、血の通った人間の温かみが感じられる居場所になりそうです。それと比べるとこっちの国主導の「要養護未成年自立生活練習計画」はよりディストピアみが感じられるのですが、考えすぎでしょうか。
おそらく、第2巻になればシリーズの方向性が決まってくるはず。姉妹には幸福な未来が待っていてほしいのですが、さてどうなることか。

『本当にあった? 恐怖のお話・魔』(たからしげる/編)

本当にあった? 恐怖のお話・魔

本当にあった? 恐怖のお話・魔

大事なことを先に書いておきます。小中の学校図書館はこの本を入れておいてください。これは、必要としている子どもに絶対に届けなければならないタイプの本です。
というか、こういうホラー短編集という体裁の本に本当に怖い現実の話を書くのはひどいよね。そんな非道な所業をした作家が2名ほどいるのです。
せいのあつこの「がたがた」は、(大人はいいなあ。学校へ行かなくていいんだもの)という独白から始まる、そんな話です。グループ内の圧力のために幼なじみに冷たい態度をとらざるを得なくなった女子の物語。その女子が本当は幼なじみのことが好きなのかそうでないのか、そこは問題ではありません。理不尽な支配力のために自由な選択肢が奪われるという状況が怖いのです。
梨屋アリエ「あの手が握りつぶしたもの」が描く恐怖は、性的な被害がなかったことにされるという恐怖です。児童に対する性暴力への世間の認識の甘さ*1のため、子どもがひとりで苦しみを抱えなければならないという地獄。梨屋アリエは、朴訥な筆致でその苦しみを描きます。それは、そうした表現でしか描き得ないものです。
性暴力に苦しめられている子どもに、世の中には「わかってくれる大人」がいるということだけでも伝えられれば、救いの糸口になります。届くべきところに届きますように。

*1:作中では、女子だけではなく男子に対する性暴力にも触れられています。このように、世間にまだ認知されていない弱者に目を向ける梨屋アリエの先進性は、もっと評価されるべきです。

『あさって町のフミオくん』(昼田弥子)

あさって町のフミオくん

あさって町のフミオくん

小学3年生のフミオくんの周りで起こる不思議現象を描いた、不条理寄りの童話集。
第1話「ぼくはフミオ」は、買い物帰りのフミオくんが、縞模様の服を着ていたためにシマウマのお母さんに自分の息子だと勘違いされて拉致される話です。シマウマともみあっているうちに持っていた牛乳をかぶってしまうと、今度は牛乳のにおいに釣られたウシのお母さんがやってきて、またも自分の息子だと思いこみ拉致に及びます。
まったく異なる判断基準で行動する人々の怖さがいい具合に描かれています。ウシと口論しているうちにうっかり口が滑って「だから、ぼく、フミオじゃなくて……」と言ってしまい、ウシを満足させてしまう場面などは、恐ろしさとギャグの配分が見事。高畠邦生も恐怖寄りに仕事をしていて、フミオくんが牛乳瓶に閉じこめられている場面などはぞっとさせられます。
第2話「がいこつおじさん」は、あまりの暑さで体を脱いでがいこつだけになったおじさんとプールに遊びに行く話です。脂肪がないから浮くことができずプールの底に沈んでしまうなど、がいこつならではの失敗が楽しいです。フミオにとっておじさんは一緒に遊んでくれる大好きな人ですが、一方でお父さんはおじさんと違ってまともな人でよかったとも思います。こういう子どもらしい無邪気で残酷な選別も笑えます。

『いいたいことがあります!』(魚住直子)

いいたいことがあります!

いいたいことがあります!

小学6年生の陽菜子は、家事の手伝いを自分だけに押しつける支配的な母親に不満を募らせていました。ある日、母親のふりをして塾に欠席の連絡を入れようとしていたところ、家のなかに「幽霊でも泥棒でもない」見知らぬ女の子が出現します。彼女は陽菜子に大人のふりをするための大人語をレクチャーし、ウソの電話を成功に導きます。陽菜子はその後、女の子が忘れていったと思われる手帳を拾います。そこには親に対する批判の文章と、〈スージー〉という署名がありました。陽菜子は〈スージー〉の言葉を頼りに、母親への反抗を開始します。
このタイミングで現れる謎の女の子の正体は、児童文学を読み慣れた大人であれば容易に想像できることでしょう。そのファンタジー設定自体はありふれたものです。では、この作品の特色はどこにあるか、それは〈スージー〉の言葉の強さにあります。

わるい親は、子どもを見ていない。
見ていても、外がわだけだ。心は見ていない。
見ていないくせに、自分がさせたいことを押しつける。
しかも、それを自分で意識していないから、たちがわるい。
(中略)
親は、自分が絶対に正しいと思いこんでいる。
自分の子どもだから、絶対にわかりあえると信じている。
でも、正しさはひとつじゃない。
わかりあえるのも、相手の気持ちを大事にしたときだけだ。それは他人同士のときと同じだ。
わたしは、親に支配されたくない。わたしは、わたしの道を行きたい。
(p34-35)

「親が子どもに向かって『悲しくなる』っていうのは、子どもに罪悪感を感じさせてだまらせるずるい言いかただよ。子どもは親が好きだから、悲しませたくないでしょ。親はそこにつけこむんだよ。」
(p62)

〈スージー〉の言葉にはレトリックがありません。飾らない言葉だからこそ力を持つのです。
現実の子どもの前に〈スージー〉が現れることはありません。しかし、言葉を届けることはできます。それが、児童文学の重要な役割です。
見逃してはならないのは、この作品の主要なテーマはジェンダーの問題「ではない」ということです。陽菜子は、男だけではなくおばさん(母の妹)も家事をしていないということを観察しています。この作品はジェンダーとは別の根深い問題にも踏みこもうとしているのだいうことは、きちんとおさえておく必要があります。