『ミッチの道ばたコレクション セミクジラのぬけがら』(如月かずさ)

セミクジラのぬけがら (ミッチの道ばたコレクション)

セミクジラのぬけがら (ミッチの道ばたコレクション)

これこそ幼年を描いた児童文学であるという、説得力にパワーのある作品です。楽しいものを圧縮して配置したデザイン性の高いカバーイラストも目を引きます。
ミッチの趣味は、道ばたに落ちているものを拾ってコレクションすること。探求心の強いタイプの子どもであれば、あるあると共感を寄せられる題材です。子どもにとってセミのぬけがらや変わったかたちの木のかけらには、宝石を同じくらいの価値があります。そんな楽しさを丁寧に描き、金魚鉢に入るサイズのセミクジラを手に入れるという虚構を混入し、豪快に嘘と奇想を増幅していく手つきがあざやかです。

『ぼくがいちばんききたいことは』(アヴィ)

ぼくがいちばん ききたいことは

ぼくがいちばん ききたいことは

西村ツチカのイラストが目を引きますね。アヴィの短編集が登場。男子と家族をめぐる物語が7編収録されています。
男子として生きることのキツさを苦いユーモアでくるんだ作品が並んでいます。「家に帰る」は、離婚調停で月1で面会することになっている父親に会いに行く話。父親の家でまったく知らない女性に対面し、父親が再婚していたことを知ります。決定的ななにかを失った瞬間が印象的に描き出されています。
アマルフィ・デユオ」は、なんでも一緒に行動したがる祖父を持った男子の物語です。祖父の誘いで音楽教室に通うことになりますが、男子にはそこそこ才能があったのにはきりっていた祖父の演奏は惨憺たるもので、気まずくなってしまいます。
もっともストレートにキツく男であることの困難が描かれているのは、「ぼろぼろ」でしょう。主人公の男子はダンスパーティの帰りに強盗に襲われます。ところが巨漢の弁護士の父親は、息子が強盗に立ち向かわなかったことを責めるだけで、まったく心配しようとしません。父親は腰抜けの息子を持ったことで恥をかかされた自分こそが被害者であると思っているのです。この父親も、男性性という呪いに囚われている犠牲者ではあります。ただし、子どもに害を及ぼすようでは同情の余地はありません。最終的に男子は父親に復讐を果たし父親を捨てることに成功しますが、後味は苦すぎます。

『もえぎ草子』(久保田香里)

亡母が内裏の女官であった萌黄は、12歳で職御曹司での下働きを始め、母と同じように出世の糸口をつかもうとします。時は定子の父が亡くなり兄たちがやらかして没落が確定的になったころ。萌黄は清少納言ともわずかに関わり、定子サロンの最後の輝きの一端を目撃します。ところが、紙を盗んだという疑いをかけられて職御曹司から追放されてしまいます。

中宮清少納言も、このできごとをまた、女房たちと明るく過ごすための笑い話にするのだろう。
(p185)

わたしは枕草子の優雅なエピソードも好きだし、定子の没落という背景の悲劇性も知っているので、それなりに定子サロンには好感を持っています。この作品は庶民からみれば清少納言も定子も下々の者を踏みつけにしてなんとも思わないクソ貴族なのだということを突きつけてくるので、正直なところ目をそらしておきたいところをみせられてしまったという感想を持ってしまいました。あの楽しい雪山争いのエピソードなんかも、それに振り回される下々のものからみれば地獄なわけですよね。これは重要な視点です。
そんな階級上の断絶はありますが、造紙手の父を持つ萌黄は紙を愛するという点において清少納言に共感を寄せます。そこにかすかな希望がみえます。
平安時代を舞台にしたこの『もえぎ草子』、中国を舞台にしたまはら三桃の『思いはいのり、言葉はつばさ』、架空の世界を舞台にした菅野雪虫の『アトリと五人の王』と、同時期に中堅の女性作家による力作が続きました。この3作はそれぞれ趣向は違いますが、女子が生き抜くためには文字と紙が大事であるという思想は共通しています。この共通項は興味深いです。

『アトリと五人の王』(菅野雪虫)

アトリと五人の王 (単行本)

アトリと五人の王 (単行本)

豊かな国の姫君として生まれたものの、自身と娘のカティンの出世のことしか頭にない継母に虐げられて育ったアトリは、誰からも祝福されることなく数え年で10歳にして病身の没落貴族の月王の元に嫁ぎます。そこからわずか8年で5回も結婚することになるという波瀾万丈の人生を歩むことになります。マナット・チャンヨンの『妻喰い男』が思い出される設定ですね。
現実的に考えれば、アトリの結婚は親の離婚再婚や転居などで自分の意思にかかわらず大きな環境の変化を余儀なくされた状況であると捉えられます。それを架空の王族の物語とし、10年ほどの出来事を本1冊に圧縮しているので、ドラマチックで読ませる話になっています。
アトリは育児放棄された子どもで、はじめは知性も美貌も持たない子どもとして登場します。そんなアトリにとって月王ははじめてのまともな保護者となり、「知識」「常識」「愛情」を与えてくれます。アトリはどんどん人間らしさを獲得していきます。子どもが生きるために必要なのはなによりも知性と知恵であるという、菅野雪虫の基本姿勢通りの展開です。
知性を得るということは、もっと知りたい、もっと本を読みたいという欲望を抱くということでもあります。自由のないアトリにとって欲望を抱くことは苦しみにもなってしまいます。それでも最後には自分で自分のいるべき場所を選び取ります。
アトリの腹違いの妹のカティンも魅力的です。母親をみてああはなるまいと学習し、いつの間にか自力で生きるすべを獲得していたたくましさにほれぼれとしてしまいます。アトリとカティンの姉妹愛が美しく物語の幕を引くラストは必見です。

『思いはいのり、言葉はつばさ』(まはら三桃)

思いはいのり、言葉はつばさ

思いはいのり、言葉はつばさ

旋盤だったり鷹匠だったり珍しい素材を見つけてきてYAに仕上げる作風で知られるまはら三桃ですが、今回は中国の女書・結交姉妹という素材を拾ってきました。まはら三桃は現代を舞台にしたYAを主にものしていたので、異国の歴史ものというのは、あまりなかった試みなのではないかと思われます。
男には秘密で女のあいだでのみ伝わってきた女書は、自由と抵抗の象徴です。女書を知ったチャオミンはその美しさに魅入られてしまいます。
字を覚えるとなにができるかというと、恋文を書くことができるようになるのです。チャオミンは誰もが憧れる女性であるシューインから、姉妹の契りを結びたいという申し込みの手紙を受け取ります。シューインの手紙は、字も文章も優美なものでしたが、チャオミンのは比べるべくもないもの。であっても思いを伝えることはできるのだという希望が光り輝きます。
文字が自由の象徴なのであるとすれば、奪われた自由を体現するするのは纏足です。物語の終盤では靴が意外な役割を果たします。悲劇を笑いに転化するのは、物語の原初的な力です。その素朴な力に励まされます。

『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ)

エレベーター

エレベーター

エドガー賞ヤングアダルト部門やカーネギー賞ショートリスト他多数の児童文学賞を獲得した話題作の邦訳が登場。
兄ショーンを殺されたウィルは、「愛する誰かが 殺されたなら、 殺したやつを、見つけだし、 かならずそいつを 殺さなければならない」という「掟」に従い、兄の洋服箪笥から拳銃を持ち出します。作中で語られるのは、アパートの8階の自宅からエレベーターで1階に降りるまでの短い時間の出来事だけです。しかしその読書体験は、長い時間拷問を受けているかのような密度の濃いものになります。
邦訳の本は、原書と同じく横書きになっています。これは、文字列を下に落とすことによってエレベーターで下降するウィルと同じ体験を視覚的に読者にさせる演出となっています。邦訳版のカバーは、「エレベーター」というタイトルを縦書きにすることで下降感を出しているのが憎いです。
読者はウィルとともに
     落ちてゆく
     墜ちてゆく
     堕ちてゆく
階を下るごとにエレベーターには乗客が増えていきます。それは銃で殺されたはずのウィルの周囲の人々。ウィルの周囲にはあまりにも死が溢れすぎています。死者たちは煙草を吸い、狭いエレベーター内を煙で満たしていきます。
息苦しい、溺れそう、逃げたい、逃げられない。いつまでたってもたどりつかない。
いや、ゴールはあるはずです。でも、1階Lobbyの「L」は、Loserの「L」でもあるのです。
読者は物語の終幕で無事殺されるわけですが、その後の謝辞でもう一度殺されることになります。1ページの短い文章であり、具体的なことはほとんど述べられていません。でも、著者に関する予備知識をなにも持たない読者であっても、著者の生い立ちや彼がいかに文学に救われてきたのかということを理解させられてしまいます。
読者の感情を強く揺さぶるという点では、間違いなく今年の翻訳児童文学のなかで屈指の傑作です。

『12歳で死んだあの子は』(西田俊也)

12歳で死んだあの子は (児童書)

12歳で死んだあの子は (児童書)

大学の附属小学校に通っていたが公立中に進学した須藤洋詩は、中2の秋に小学校の同窓会に参加しました。参加前は少しの不安を感じていながらも、それなりに楽しい時間を過ごすことができましたが、ひとつひっかかることが残りました。それは、小6で亡くなった同級生の鈴元育郎の話題を誰も出さなかったこと。須藤は何人かの仲間とともに、鈴元のお墓に会いに行く計画を主導することになります。
エリートの子ども、同窓会……このキーワードから悪い児童文学読みは、きっと凄惨な殺人事件の真相が明かされる話になるのだろうなと予想することでしょう*1。そこまでひどいことにはならないので安心してください。
附属小から附属中に進学した生徒たちが附属中にも他の私立にも行かず公立に進学した生徒を「島流し」扱いするような感じの、嫌らしい側面はあります。だたしそれよりもこの設定は、それなりに繊細で頭のよい子どもたちの群像を描くためのものとして機能していて、作品の空気感は悪くはありません。
主人公は「島流し」の身であり、そもそも生前の鈴元とは特別仲がよかったわけでもなく、どちらかというと傍観者的・非当事者的位置にいます。その立ち位置から、元同級生の人生を眺めていきます。子どもといえど、死を含め人生は複雑に分岐していきます。そうした人生の機微がしっとりと描かれているところに、この作品の魅力はあります。