『闇の礎 死のエデュケーション Lesson 3』(ナオミ・ノヴィク)

卒業の日に全員を生還させようという無謀な試みが成功した……かと思いきやオリオンがたったひとりで取り残されるという凶悪な引きが2巻のラスト。治安最悪の学園バトルファンジー三部作が、完結しました。
コネ持ちだったり野心家だったりする同期が学校の外の世界で暗躍を始めるなか、オリオンを失ったエルは世界を駆け巡って怪物を倒し人助けにいそしんでいました。そして自治領の秘密が明らかになり、オリオンの母親のオフィーリアが黒魔術師としての本性を現します。世界中の魔法自治領の命運をかけた嫁姑戦争が勃発……するのか!?
3巻のエルも善良で悪態をつきまくり、腕立て伏せをする姿を見せてくれます。絶望的な状況ですが、変わらない主人公の姿には安心させてもらえます。しかし、彼女に訪れる試練は過酷です。訳者あとがきでアメリカの有名作家の有名なSF作品が引き合いに出されているように、作品のテーマはそこに収束していきます。エルはよりましな選択をしようとしますが、自分のしていることもオフィーリアの所行とたいして変わらないのではないかと思い悩みます。すべてをぶち壊すことはできないので、漸進的にしか改革ができないのが難しいところです。
ただ読者はシリーズを通して、エルやオリオンならなにをやらかしてもおかしくないという信頼をすでに持っています。他人から理解されにくい苦しみを持っているがゆえのふたりの強さが希望になります。
最終章のタイトルが「スコロマンス」で終わるのが美しいです。エルは学校への憎しみが消えている事実にふてくされてしまいます。結局このシリーズは、最高の学校と最高の友だちの物語でした。

『学園ミリオネア 100万円ゲーム 2 絶対もうかるウマい話、あります!?』(遠山彼方)

学園金融小説の第2弾。父さんの会社が倒産したのでバカ高い学費を払えなくなり転校の危機に陥ったところを投資に詳しい男子渋沢シキに助けられた津田サクラでしたが、3学期分の学費はまだ確保できていないので、またもシキに頼ろうとします。でもシキは「自分で考えないやつに、投資をする資格はない!」*1と塩対応。そこにさわやかイケメンの上級生ナツメ先輩が現れ、親切にもIPO(いも・ポテト・おいもの略らしい)という絶対儲かる方法を教えてくれました。さらに、投資について教えてくれるスクールにまで誘ってくれます。そこでは、レバニラ炒め(?)とかいう手元にあまりお金がなくても高額の投資ができる魔法のような方法まで教えてもらえました。世の中には困っている人に手を差し伸べてくれる親切な人がいるんですね。人間ってすばらしい。なぜかサクラの姿がネギを背負ったカモのようにみえてきたんですけど、きっと気のせいのはず。
投資スクールの学長は「エス」を名乗っていたので看過できず、学園の黒王子ズズネ様がシキのふりをしてサクラと投資スクールに潜入することになり、サクラは最推しの王子と急接近。ラブコメとしても盛り上がってきます。
ただし、この作品のおもしろさの根幹はコンゲーム的な趣向にあります。シキと詐欺グループの騙しあいが、最大のみどころです。
愉快なキャラが多いのもこの作品の魅力です。主人公のサクラは推しのスズネ様の前でキモキモ思考を垂れ流しにして笑わせてくれます。新キャラの仮面をつけたお嬢様もいい性格していました。でも、もっとも気になるのはシキとスズネ様がお互いにどんな感情を持っているのかというあたり。続きがあればそこをもっと掘り下げてもらいたいです。

*1:お金をテーマとした小手鞠るいの近作『お金たちの愛と冒険』では男にお金を預ければ勝手に投資で増やしてもらえるという理論が展開されていましたが、正しいのはどっちかな?

『あやしの保健室Ⅱ 3 はらぺこあやかし獣』(染谷果子)

子どものやわらかな心を狙って小学校を渡り歩く自称養護教諭2年目25歳の奇野妖乃先生を主人公とするシリーズの第2期3巻。
今回赴任した学校では、四年生が飼育係としてウサギの世話をできる制度がありました。ところがウサギがみんな死んでしまったのでそれはなくなり、かわりに二年生がモルモットの飼育をすることになります。第1話の主人公は動物の飼育を楽しみにしていた三年生の籐弥。運悪くはざまの学年になってしまったのでその期待は裏切られ、その心のすきにつけこまれてモルモット霊のモル吉に取り憑かれます。モルモットなので見た目はゆるくてプイプイ鳴くけど、きっちりと取り憑いた相手は衰弱させます。
動物が好きな子どももいれば、嫌いな子どももいます。第2話の主人公はモルモット飼育をする二年生の紫音。モルモットに触らなくていいように、妖乃先生から〈観る人〉になるメガネを与えられます。〈観る〉ことは対象から距離を置いて関わりを避けることではなく、「ミル ハ アイ」であるという転倒をみせるのがおもしろいです。
ということで、今回は飼育・育成をテーマにしたエピソードが並びます。でも、妖乃先生がもっとも育成を得意としているのは、モルモットのような小動物ではありません。百合の花です。今巻も、あでやかな鬼百合が咲き誇る第4話が出色の出来でした。
第4話の主人公は、動物アレルギーを持っている六年生の美紅。幼なじみの小萩がネコを飼い始めたので、絶交を言い渡していました。ある日、美紅の椅子にチョークでモルモットとそのフンの落書きをされる事件が起こります。誰が犯人かわからず一番大事な小萩まで疑うようになった美紅は、気高いツノを生やします。妖乃先生は美紅に情熱と慈愛の鬼百合の花かんむりを与え、そのツノを飾ります。最強の防壁を得た美紅は、妖乃先生に「人をこえた」とまで言わしめるほどの孤高の美しさを手に入れ、周囲を威圧するようになります。
しかし、幼なじみの小萩の愛はそんなものはいとも簡単に乗り越えて美紅に届きます。ここで、凍結されていた幼なじみの時間が溶かされます。と同時に、その一瞬は余人の立ち入れないものとして凍結されます。誰にも立ち入れない幼なじみの聖域を垣間見ることができるのが、このシリーズの醍醐味のひとつです。
エピローグで妖乃先生が学校を去るのはいつものお約束通り。エピローグで籐弥は、友だちだったモルモットと死別したことを告げます。ここで学校に出入りしている獣医が、こう言います。

「命の長さがちがうのは、つらい。でもだからこそ、いっしょにいられる時間を大切にしたいし、愛したい。」

この場面が感慨深いです。人間の登場人物は、妖乃先生が長命種の妖怪であることを知りません。面倒をみた子どもたちが死んだ後も妖乃先生が途方もない時間を生きるであろうことを知っているのは、人外の登場人物と読者だけです。獣医の言葉は本人の意図とは異なる意味で読者に受けとめられます。

『金色の約束』(松本聰美)

さいころ大親友だったのに疎遠になってしまった光輝と友彦の物語。ふたりが昔通っていた駄菓子屋的な店のじいちゃんが亡くなり、ふたり宛に大きなバッグを遺しました。バッグのなかに入っていたのは、じいちゃんのメッセージと砂金採りのための道具でした。バッグを預かった光輝は久しぶりに友彦に連絡を取りますが、なぜか友彦の方が乗り気でさっそくふたりで砂金採りに山に向かいます。
光輝はシングルマザーに育てられていて、友彦は裕福な医者の息子。友彦が都会の塾に通うようになったとき、友彦はふたりのあいだの経済格差に触れる発言をしてしまいます。それ以来、光輝は友彦に反感を持つようになってしまいました。ふたりで冒険をしているあいだも、光輝は格差を意識します。たとえば友彦がアウトドア知識を持っていることについても、経済力や文化資本の格差を感じてしまいます。一方、将来は当然医者になるものと期待されている友彦のほうも、光輝にはわからない重圧を感じていました。この本読んで知ったんですけど、医学部は自殺率が高いらしいですね。そんなふたりがじいちゃんの導きで関係を修復していくのが、この作品の流れです。大人の手の上で操られている感はありますが、じいちゃんの愛情の庇護が作品世界に温かみを与えています。「山・川・空」の難所といったミステリアスなメッセージの謎解き要素で、娯楽性も確保されています。
タイトルの意味が明らかになる収束のさせ方がうまいです。ふたりの今後の人生は険しい道になりそうですが、希望となるふたりの絆の永続性を信じさせてもらえます。よきBL児童文学でした。

『マリはすてきじゃない魔女』(柚木麻子)

「ナメクジのゲロは長い」

シスターフッド系の小説の書き手として知られる柚木麻子の初の児童文学作品。11歳のマリは、食いしん坊で目立ちたがりで怠け者で独特のファッションセンスを持っている「すてきじゃない」魔女。学校でも実験用のカエルを千匹に増やしたり、歴史の教科書から昔の暴君とその軍隊を引っぱり出して校舎を危うく燃やしかけたりと、厄介ごとばかり起こしています。物語のはじめから己の食欲を満たすために一歩間違えば世界を滅ぼしかねない魔法を使って学校に保護者を呼び出されるのですから、始末に負えません。マリの住む町には人を眠らせてしまう巨大な花が封印されていてそれが目覚めそうになる危機が訪れますが、マリは「すてきじゃない」ので町を救う英雄になったりはしません。
まずは作中における「すてき」「すてきじゃない」の意味を確認しておきましょう。魔女はクラスにひとりくらいの割合でいるマイノリティです。魔女はかつて人間たちから激しい弾圧を受けていました。そこで魔女たちは、人間たちにとって「すてき」な存在になって人間に受け入れられようと努力しました。つまり、自分たちは有用であるとアピールしマジョリティにおもねるという生存戦略を選んだわけです。しかし人間たちのわがままは尽きず、魔女たちは「すてき」の重圧に苦しんでいました。
「すてき」な魔女の代表格は、マリの母のユキさんの母のモモおばあさまです。彼女の活躍は人間によって脚色された小説にされ、映画化もされています。モモおばあさまは生きながらに偶像にされているわけです。かつて魔女はコウモリ・カラス・ヒキガエル・猫などを相棒にしていましたが、猫以外は「すてきじゃない」ので、モモおばあさまは人間の小説家の指示で相棒のコウモリと引き離されていました。
ユキさんの妻のグウェンダリンも力のある魔女で、占い師として多くの人を救い「すてき」な魔女として人気を得ています。なのに、人間ときたらね。物語が進むにつれて人間のおこなう差別のひどさがどんどん明らかになり、人類は魔法で滅ぼした方がいいんじゃないかという気分になってしまいます。
人間どもは魔女の体型にまで口出しし、ちょっとでも太ると「すてきじゃない」と文句を言ってきます。本当に滅んだ方がいいと思う。
そういうわけで、人間の役に立たず自堕落で太っているマリは、まったく「すてきじゃない」魔女だということになります。
セクシュアリティルッキズムの問題など、現代の子どもたちに伝えたい論点がたくさん盛りこまれています。そこがあまりに生真面目なため、すべてのキャラクターやエピソードが思想を語るためにつくられていることが見え透いてしまう窮屈さはあります。
でも、「すてきじゃない」魔女のパワーがそれを吹き飛ばしています。かつてはモモおばあさまと親友だったけど「すてきじゃない」生き方を貫いている魔女のマデリンは、お城で自由気ままな生活を満喫しています。お城の1階は南極で2階は南国、3階は図書館と映画館。映画館ではバターたっぷりのポップコーンを頬張るという背徳的な行為もできます。最高のお城では。マデリンは、人間とは決別し氷の城に引きこもったエルサです。もちろんマデリンは、エルサのような「すてき」とされる容姿もしていません。
主人公のマリも、マデリンに負けずフリーダムです。柚木麻子はインタビューで、この作品を書くうえで絶対にやりたいと思ったことを3点挙げています。人を救わないことと成長しないことともうひとつ。最後に挙げたのは思想ではなくただの趣味でした。この趣味を押し通すパワーが、作品全体に爽快感を与えています。

『お金たちの愛と冒険』(小手鞠るい)

お金というテーマが大々的に打ち出されている作品ですが、注目すべきなのは小手鞠るいのくせ者っぷりがいかんなく発揮されている点です。
「作者の気持ちを答えさせる問題は無意味だ」という言説が、国語教育を批判する文脈でよく聞かれます。しかし国語の授業で作者の気持ちが問われることはまずないので、実は批判者が義務教育時代から全く勉強をしていなかったのだということが露呈されるというのが、いつものオチです。この作品の笑えるところは、「編集者の注文ウゼー」とか「自分の仕事時給換算するといくらになるんだろう」とか、原稿に取り組んでいるときの作者の気持ちが本当に描かれているところです。
お菓子職人になることを夢みる金太と、書店を開くことを夢みているあかねの物語です。そのひとつ上の階層に、金太とあかねの物語を書いている金森吹雪という作家*1が存在してます。吹雪は「うそをつくのが作家の仕事」だと言い、この企画は編集者から指示されたもので本人はそれほど乗り気ではないということも明かしています。これは読者に対して、この作品も作中作も疑えと目配せしているようなものです。
吹雪は男子の金太にはあまり心配をしていないのに、女子のあかねにはあれこれ心配して世話を焼こうするパターナリズムをみせます。さらになぜか、女子にだけはなんとしても恋愛をさせなければならないと意気込みます。作中の作家はそういったジェンダー観の持ち主として設定されています。
そういうひねくれ方をしているので、作中の浮ついたお金礼賛の言辞には、自然と疑いの目を向けたくなってしまいます。
この作品を読んだ子どもにひとつだけ助言をしておくならば、「お金を増やしてあげる」と言ってお金をせびるやつはたいていおうまさんとかに会いに行くものだということは付け加えておきたいです。

*1:この作家は海外の森のなかに住んでいるという設定なので、著者の「小手鞠るい」を想起させるというメタ構造も持っている。

『ケモノたちがはしる道』(黒川裕子)

さうして わたしは 死んだ
けものたちの 叫びも 叫びも
わたしの 傷  傷
わたしにのこされた この失語症
(吉原幸子「くらい森」 より)

都会の子どもを田舎に放りこむという、児童文学でよくある様式の作品です。この類型でもっとも有名なのは梨木香歩の『西の魔女が死んだ』ですが、この作品はだいぶ様相が異なります。主人公の千里がゲーム実況の配信者であるという設定が現代的です。千里は、パック詰めの手羽先に羽がついていたことに衝撃を受けます。

ただのパックの手羽先だったものが、少し前までは生きていた、完全な姿を持っていたと、急に手のひらを返して自己主張をはじめるなんて、許せない。後ろめたいし、なんか困る、と思う。何が許せなくて、後ろめたくて、どうして困るのかはわからない。

熊本出身でニワトリの首をパキるのが得意な母親は、そんな千里を見て田舎送りにすることを思いつきます。そこで現れるのはマジカルグランマではなく、もっこすのジジさま。熊本で千里は、生き物との生々しい格闘の現場に立ち入ります。
生き物の生き死にの描写は凄惨です。読者の子どもにショック療法を施すことがこの作品の目的のひとつであると推察されますが、それは成功しているようです。ただ、子どもにそこまでの不可逆的な傷を与えることの是非については評価がわかれるかもしれません。作中にはためらいが感じられる箇所もみられます。梨木香歩からの連想だと、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の食肉に関する議論も思い出されます。