『僕たちは星屑でできている』(マンジート・マン)

難民支援の慈善事業としてドーバー海峡横断泳に挑戦しようとしているイギリスの少女ナタリーと、独裁国家エリトリアから逃れイギリスに渡ろうとする少年サミーを主人公とする物語。原題は『THE CROSSING』。現在の英米で流行している詩形式のYAで、さらに原題のとおりふたりの語りが交差するような実験的な手法を取り入れています。
2行空けの後で自然にふたりの語りが交代したり混じりあったりするので、慣れるまではいまどちらのパートなのかを把握するのに少し苦労します。似たフレーズが太字になっていて、それをきっかけに交代していることに慣れると、読みやすくなってきます。ただし、イギリスのナタリーと難民のサミーでは、同じような言葉が使われていても状況は全く異なります。たとえば「めまいがする」という状況。イギリスでは近しい人物の人格が変わってしまったことに対する思いを比喩的に表していますが、難民側は水も食料もなく身体的にめまいがしています。
ただ、ナタリー側もサミーほどではないにしても苦境に立たされています。一家の中心だった母の病死をきっかけに窮乏が極まって住居を探すのにも苦労します。なかなか仕事を見つけられない兄のライアンは排外主義的な極右グループと関わりを持つようになり、ナタリーの同級生に暴行した疑惑まで浮上してきます。
学校の社会学の授業で、先生はヘイトクライムが起こる原因についてこのように説明します。

「そのことは犯罪や権利剥奪の問題とも密接に関係しているわ。
理由はひとつではないけれども、声を上げられないとか
自分が「生まれ育った」国で二級市民であるように感じた人たちが、
極右グループに加わることはよくあるの」

ナタリーはこの話を聞いて、「教室じゅうが私よりライアンのことをよく知っているみたい」との感慨を抱きます。こういう状況では人はこうなってしまうという現象のみに還元されます。ここでは、ライアンはナタリーがレズビアンであることをカミングアウトした後にお祝いのレインボーケーキを用意してくれた優しい兄であったというような、個別の事情は捨象されてしまいます。
でも、サミーの置かれている環境はナタリーと比べるべくもないほど過酷です。それはたとえば銃であり、有刺鉄線であり、牢獄です。
作者あとがきでほのめかされていることや、作中で何度か繰り返される演出から、結末を予想することは容易です。作中で「白い(白人の)救世主」が揶揄されているように、この作品も結局強者が弱者をロマンチックに消費している側面があることは否定できません。であっても、この作品の手法が異なる立場の者同士でも共感共苦し繋がりあえる可能性を指し示す希望を照らしていることは信じたくなります。

『ゆうれいがいなかったころ』(岩本敏男)

昭和アングラ児童文学界でもひときわ異彩を放っている岩本敏男による創作民話集。1979年、偕成社刊。死者が登場する作品が多数収録されています。作中のセリフは「」でくくられておらず、語り手と作中の死者や生者の声がとけあい響きあっているようです。
第一話「鬼がむかえに」では、人が死んだら鬼が走って迎えに来て黄泉の国に連れていかれるという設定になっています。根別という樵が死んだとき、三日経っても鬼は現れず根別は目をあけて声を出したので、両親は根別が生きかえったと喜びます。そこへ鬼がやってきて、両親の抗議もきかず根別を背負って黄泉の国に向かって走り出します。黄泉の国の閻魔は根別は死んでいないと裁定し、帰るように命じます。しかし帰りは鬼に送ってはもらえず、十万億土をひとりで歩いて帰ったので家に着いたら力尽きて結局死んでしまいます。こんな理不尽許されるの?
この作品における死者は霊魂のような実体のない存在ではなく、生身の肉体も意思も持っているように描かれることもあるのが特異です。上野瞭の解説は、「死を人生の終焉とみる物理的人間観に対して、きわめて日本的発想でとらえられた他界の表現」であるとし、折口信夫の『民族史観における他界観念』を引いてこの作品における死者の世界は「未完成の霊魂の留まる地域」であるとしています。
表題作「ゆうれいがいなかったころ」での死は、死者が自分でお墓を抜けて三途の川まで歩いていくものとされています。治平さんは三途の川の渡し賃が一文足りなかったので、村まで戻って一文をくれる人を探し回ります。
第八話「とぶ首」は、首をはねられた悪党たちが自分たちの悪事を語りあう話。自分たちが落ちる地獄を予想したりする様子には妙なユーモアがあり、日本犯罪界の大スターが唐突に颯爽と登場し首たちを救済するラストには呆然とさせられます。
第一六話「ちょうちん小僧」では、あるさむらいの日記という形式でちょうちん小僧という怪異による連続殺人のさまが語られます。淡々とした客観的な記述が恐怖を盛り上げていきます。その積み上げのうえで、さむらいが事件の中心地を訪れる日の記述の陰惨なポエジーが引き立っています。
斎藤隆介さねとうあきらの諸作に並ぶほどの日本の創作民話の大きな収穫として記憶されるべき作品です。

『チーム紫式部!』

お江戸でゾンビパニックが起こる『お江戸怪談時間旅行』など、静山社から出ている楠木誠一郎の時代ものはフリーダムな怪作が目立ちます。これもなかなかになかなかな作品でした。
憧れの藤原道長にスカウトされて彰子に仕えることになった紫式部は、道長を主役にした妄想ストーリーを書きます。この作品の特色は、紫式部が子連れ文士として宮中に入ることです。しっかり者の娘の賢子がひきこもり体質の母を叱咤して仕事をさせるという関係性の転倒がギャグとして展開されます。紫式部のライバル役も子連れで登場するので、ケンカの様子も立体的になって盛り上がります。紫式部の境遇を、バリキャリのシングルマザーとして現代風に読み替えているのがおもしろいところです。
読者に語りかけるような紫式部の語りも愉快です。油を使わず月明かりで夜を過ごすのはSDGsだとのたまったり、官職の序列を『鎌倉殿の13人』を引き合いに出して説明したり、現代の読者にわかりやすく親しみやすい語りに引きこまれます。「通い婚でも育休とりなさいよ」って説教なんなの? 「全集中」とか現代の言葉を出しアナクロニズムを犯しているのは、もちろん文学的な手法です。代表的な例としては、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』が有名ですね。けっして「この本書いた人バカなの?」なんて思ってはいけません。
紫式部は職場の人間関係に悩まされます。そういうときに頼りになる先輩がいてくれたらありがたいものです。赤染衛門パイセンと清少納言パイセンが助けとなり、紫式部は自分の立ち位置を確立します。そして、オタク女子たちが結束してしまえば、もう無敵です。「チーム紫式部」なる謎集団が結成されてからの物語の勢いには、呆然とするしかありませんでした。

『となりのきみのクライシス』(濱野京子)

小学六年生の葉菜のクラスでは、保護者や先生が加害者となる事件が続発します。カバー袖の紹介文にある例を挙げると、「父親の家庭内暴力、学校でのセクハラ、母親からの過干渉、女子を見くだす祖父」と、多様なクズ大人が登場します。これって物語を作るための都合で過大に扱っているだけで、ひとつのクラスでこれだけの問題が起こるのはありえないんじゃないのと現実逃避をしたくなりますが、ひとクラス分の人数がいればこの量は多いとはいえないでしょう。葉菜が学校で起きたことを親に話すと、「日本の子どもの七人に一人は貧困って言われているものね」などと知識を与えられ、葉菜のみる世界はどんどん地獄みを増していきます。
個人的にもっとも地獄だと思ったのは、急に担任が交代されてから起きた事態です。保護者のひとりが担任交代の後は学級崩壊しやすくなるからと扇動し、数名の保護者が毎日授業の様子を監視に来るようになりました。常に背後に親の目があったら授業に集中できるはずがありません。子どもにとって学校は、家庭から解放される場所でもあるはずです。
新しい担任は、児童に子どもの権利条約の話をします。これを糧として葉菜たちが主体的に行動を起こす直球の流れは、現代トップレベルの社会派児童文学作家である濱野京子らしい力強さがありました。
物語が進むに従って、読者は葉菜の親に疑念を抱くように誘導されます。安全な場所からわかったようなことを偉そうに論評するこの大人はなんなんだと。そこそこに裕福でそこそこに意識の高い保護者の暗黒面にも、作品は踏みこんでいきます。
『となりのきみのクライシス』というタイトルの「きみ」は、読者のことだという解釈もできそうです。だとすれば、読者は逃れることができなくなります。

『1話10分 恋愛文庫』(宮下恵茉/編)

宮下恵茉編の、恋とスイーツをテーマにしたアンソロジー。基本的にベタな展開を手堅く甘々に仕上げている作品が多く、それゆえ作家陣の力量の高さがうかがわれます。
個人的にうれしかったのは、秋木真が参加していたことです。初期の秋木真は当時の男性作家としては珍しく、苦さと甘さの同居したしっとりとした片思い小説の短編を発表していました。ようやく時代が秋木真に追いついたという感じがします。しかしこの執筆陣のなかではもう秋木真もキャリアが長い方になっていて、時の流れの早さに愕然としてしまいます。
いまの時代の児童向け恋愛アンソロジーであれば、多様性への目配りがあることはもはや驚くべきことではありません。あさばみゆきの「あまい宝石」は女子に恋する女子の物語です。宝石を食べる女の子という美的なイメージでつかみ、近寄りがたい神秘的な美少女が実は……というギャップで魅せるお約束がうまくキマっています。
天川栄人の「魔法使いとキャンディボンボン」は、見習い魔法使いの女子が王子の依頼で惚れ薬を作る話。事故で兄弟子が魔法のキャンディを食べてしまいますが、全く効き目がありませんでした。惚れ薬が効かない理由はベタなやつで、兄弟子のアレにキュンキュンしてしまいます。ただ気になるのは、おそらく意図的に王子の想い人が女性であると確定できない書き方をしているところです。
ベタな作品が多いなかで、尖った作家性を発揮していた人が三名ほどいました。宮下恵茉の「恋するドーナツ」は、疎遠になっていた幼なじみと思いがけず再会する話。現実のままならなさを投げ出す作風の作家らしく、苦みが突出した作品でした。
恋愛の暗黒面に踏みこんだのが、石川宏千花の「プリンはそんなに甘くない」。ここでは、恋愛上の好き嫌いはまず生理的に受け入れることができるかどうかが先行しているとされています。それゆえ、理屈は後付けでなされます。主人公の最後の予想には、ほとんど根拠がありません。その根拠に乏しい選択ゆえに主人公が不幸になる可能性も示唆しているところに、石川宏千花の曲者っぷりが表れています。
センスの先鋭性をどうやっても隠すことができないのが、令丈ヒロ子です。「コンビニ王子のいちごさん」は、ピンク色のストライプのシャツの制服が似合うコンビニ店員のお兄さんに恋をしてしまった女子の物語です。ピンク色とコンビニは令丈作品の定番ですし、さらに令丈作品でおなじみの人外姉妹百合も仕込まれています。いちごミルク色のガイコツなんていう不気味かわいい物体は、令丈ワールドならでは。その独特の美的センスには脱帽するしかありません。

『アフェイリア国とメイドと最高のウソ』(ジェラルディン・マコックラン)

主人公のグローリアは、アフェイリア国の最高指導者マダム・スプリーマの屋敷で働くメイドです。性格の悪いマダム・スプリーマにいつもいびられていました。国では2ヶ月も雨が降り続いていて、洪水の発生が懸念されていました。しかしマダム・スプリーマは城門を閉鎖するなどの実効的な対策をとらず、まだ雨は続くという気象学者の報告を握りつぶして雨は間もなくやむと嘘の発表をします。そのうえ、国を投げ出して失踪してしまいます。マダム・スプリーマの夫のティモールは窮余の策としてグローリアをマダム・スプリーマの代役に立てることを思いつきます。こうして、なんの罪もないメイドがクズ為政者の尻拭いをさせられる地獄のコメディが始まります。
国の指導者たちがクズすぎるので、読むとどんどん胃に穴が空いていきます。グローリアが現実的な対策を打とうとしても、そんなことよりブルーインパルスを飛ばす方が国民が励まされていいよと言ってくるような高官ばかり。ほかにも、災害は私腹を肥やすチャンスだと考えたり、新聞には政府に都合のいいことしか書かせなかったり、燃料は片道分しか積まなかったり。著者はイギリスの作家で、この作品は1927年にアメリカで起きた災害をモデルにしているそうなのですが、日本人がずっとみている悪夢も思い起こさせます。
グローリアの共犯者のティモールも場面によってふるまいが変わり、信じていいのか判然としません。もう人類は信じられないので、犬を信じましょう。グローリアの苦難と並行して語られる犬の活躍が、数少ない清涼剤です。少量の救いを紛れこませながら、現代イギリスを代表する児童文学作家であるマコックランは読者に地獄の道を進ませます。
でも、もっともひどい地獄をみたのは翻訳家の大谷真弓だったのではないでしょうか。作中の新聞に載っているたくさんのアナグラムを日本語に置き換えるのにどれほど血を吐いたことか。この神業には驚嘆するしかありません。

『キオクがない!』(いとうみく)

14歳の笑喜孝太郎は自転車の事故で記憶を失います。退院して家に帰ると弟の態度がよそよそしく、隣家の女子にもひどく拒絶されます。記憶を失う前の自分はものすごくいやなやつだったのではという疑いがどんどん深まっていきます。
児童文学の主人公に加害者を据えるのは、難しい試みです。いとうみくの近作『夜空にひらく』の主人公は家裁送致された子ですが、この子はどう考えても被害者側弱者側の子でした。『夜空にひらく』の主人公を絶対に許すことのできない犯罪者だと思って読んでいた読者はほとんどいないはずです。でも、主人公をガチの加害者にすると村上しいこの『こんとんじいちゃんの裏庭』のように胸くそ悪い読み味の作品になってしまいます。その点、記憶を失い別人格になって自分を見つめ直すという『キオクがない!』の設定にはその難しさを克服するための工夫がみられます。主人公の境遇は森絵都の『カラフル』を思い起こさせます。こういうあからさまなオマージュが出るくらいに『カラフル』が古典化したと考えると感慨深いものがあります。『カラフル』ももう四半世紀前の作品ということになってしまうのか。
いとうみくらしくエンタメ性は十分で、徐々に主人公の謎に迫る構成が読ませます。児童文学のオタク向けには、そこまで同じなのかよという驚きを与えるサービスも嬉しいです。また、悪い見本として認知症になって自分が加害者であったことを忘れた老人という、逃げ切りパターンを提示しているのも意地が悪くてよいです。
ただ、結論部分にはついていけないものがありました。主人公は「甘いとあきれられても仕方がないけれど、おれはおれを許そうと思う」と自己完結します。『羊の告解』でもそうでしたが、いとう作品において許しとは、被害者不在で加害者側が勝手に自分たちに与えるものとされています。この被害者軽視の姿勢はどのような信念に基づくものなのか、気になります。