『ピアノをきかせて』(小俣麦穂)

ピアノをきかせて (文学の扉)

ピアノをきかせて (文学の扉)

2016年に講談社児童文学新人賞佳作受賞作『さっ太の黒い子馬』でデビューした小俣麦穂の単行本第2作。ピアノに行き詰まっている姉千弦を元気づけるために、小学5年生の響音が谷山浩子の『カイの迷宮』をモチーフとした音楽劇を企画する話です。
『さっ太の黒い子馬』もそうでしたが、小俣麦穂はオーソドックスで安心して読める物語を得意とする作家のようです。登場人物の名前は名詮自性で、主人公は音を響かせ、姉はピアノを意味する千弦で、手助けして指針を示してくれる叔母は燈台の燈子と、わかりやすいです。『雪の女王』モチーフで、雪の女王毒親、それを姉妹愛で解決するアナ雪路線のストーリーラインも堅実です。
それでいて、親子関係の物語としては新基軸も出しています。この作品では、親も子もみんな初心者なのだから親子関係は失敗するのがデフォルトであるとの家族観が提示されています。そして、家族はジグソーパズルのようなものなのでうまくピースを調整する必要があるのだとします。
市川朔久子の『小やぎのかんむり』『よりみち3人修学旅行』や、いとうみくの『カーネーション』など、旧来的な家族観を破壊するような作品がこのごろ話題になっています。それらの作品よりはやや穏当ですが、『ピアノをきかせて』も家族観をテーマにした児童文学を議論するさい必須の作品になりそうです。

『ルソンバンの大奇術』(牡丹靖佳)

ルソンバンの大奇術 (福音館創作童話シリーズ)

ルソンバンの大奇術 (福音館創作童話シリーズ)

本とはいったい何なのか。そんな難問においそれと答えることはできませんが、少なくともこの『ルソンバンの大奇術』という本の正体は予想がつきます。この本は劇場です。その証拠に、カバーが舞台の幕になっています。
物語の冒頭は、主人公の奇術師ルソンバンの朝食の場面です。目玉焼きを食べて黄身をヒゲにつけるところから始まる彼の一日の幕開けをたっぷりと記述し、主演俳優を印象づけます。
ルソンバンは雲をつかみ取ったり指先から星を出したりすることを得意とする奇術師で、かつては立派な劇場の花形スターでした。しかし奇術の失敗で劇場を全焼させてから落ちぶれてしまい、いまでは細々とした仕事で食いつないでいます。没落したスターの話なので、作中にはいい具合の悲哀が漂っています。

「マジシャンにとっては、ほんとうがウソでウソがほんとうなんだ」
(p62)

ルソンバンは川岸でひとりの男の子と1匹の犬と知り合います。男の子から「ウソでほんとうの名前をつけて」と依頼されたルソンバンは、〈テレピン〉と〈ペレ〉という奇怪な名前を与えます。これは芸名をつけるということにほかなりません。こうして彼の周囲は虚構化されていきます。
そして、再起をかけるクライマックスの奇術の場面、空白からイラストへあざやかに連携するみごとなデザインがなされています。いや、これはデザインというより演出であるというべきでしょう。
見世物としての本の楽しさを再認識させてくれる作品です。

『フローラ』(エミリー・バー)

フローラ (SUPER!YA)

フローラ (SUPER!YA)

イギリスの17歳の女子フローラが、好きになった男子ドレイクを追ってひとりで北極まで行く話です。フローラは前向性健忘症で記憶を保持することができませんが、なぜかドレイクとキスした記憶だけは強烈に覚えており、ドレイクを捜す旅は自分の本質を探る旅となります。でも、ただでさえ17歳の女子がひとりで遠い外国を旅するのは大変なのに、記憶障害まであるので、ドレイクの捜索は困難を極めます。
そもそもドレイクはフローラの親友の恋人で、どうも記憶が残らないから後腐れないだろうというくらいの軽い気持ちでフローラに手を出したクズ男のようです。だから、ドレイクとの再会を果たしたとしてもハッピーエンドは訪れそうにありません。しかし作品は、恋の物語から別の方向に転がっていきます。
前向性健忘症の人物が登場する有名作品といえば、『博士の愛した数式』や『僕は何度でも、きみに初めての恋をする。』あたりが思い浮かびます。そういった作品は喪失の痛みや悲しい恋など、センチメンタルな雰囲気を基調としています。しかし、『フローラ』はだいぶおもむきが異なります。知識や経験を当てにすることができないので、フローラは欲望の赴くままに行動します。どんな過酷な環境もものともせず、ただ自分の恋をかなえたいという一心でフローラは暴走します。その熱情の前では、シロクマすら恐るるに足りません。荒々しい野生児のような魅力を、フローラは持っています。
語り手が記憶を保持できないので、作中では同じような内容が何度も繰り返されたりします。筒井康隆の『ダンシング・ヴァニティ』のように、繰り返しによる幻惑感を読者に与える文体となっています。フローラが語り出すと、微妙に前と言っていることが異なっているような部分があったり、状況が一層悪化しているように見えたりと、読者を驚かせる要素がちりばめられています。語り手の設定はエンターテインメントとしても絶妙に処理されています。
最終的な物語の帰着点を語ることができないのがもどかしいですが、スリルに満ちた読書体験を得られることは保証できます。

『熊とにんげん』(ライナー・チムニク)

熊とにんげん (児童書)

熊とにんげん (児童書)

1982年に偕成社から刊行、1990年には福武文庫から刊行され現在は入手難となっていた『熊とにんげん』が、徳間書店から復刊されました。翻訳は旧版と同じく上田真而子です。
シンプルなタイトルが美しいです。原題は『Der Bär und die Leute』。邦題も的確です。『熊と人間』でも『熊とニンゲン』でも、ましてや『熊と人』や『熊とヒト』でもなく、『熊とにんげん』でなければならないのです。
この物語の主人公は、固有名を持ちません。七つのまりでお手玉をする芸を持ち、踊りを踊る熊を相棒とする男は、ただ「熊おじさん」とだけ呼ばれています。熊も、ロシア語で熊を意味する〈メドウィーチ〉と呼ばれているだけです。
熊おじさんも熊も、共同体に属さない存在です。旅芸人であるおじさんには、定まった居場所がありません。彼の友だちは熊と神さまだけです。ただし作中では、「だけ」のような少ないという価値判断を含んだ表現はなされません。そして、熊もまた、本来の野生動物としての熊の集団からは切り離されています。
あらすじを説明しても、あまり意味をなしません。ただ命と時間の物語が展開されるだけです。命と時間とは、すなわちこの世界のほとんどすべてのことです。
本は、絶版にならないのが理想です。でも、チムニク作品のように絶版になってもリレーのようにさまざまな出版社から復刊され続ける、そういう愛され方をしている本も幸福であると思います。

『さよなら、おばけ団地』(藤重ヒカル)

さよなら、おばけ団地 (福音館創作童話シリーズ)

さよなら、おばけ団地 (福音館創作童話シリーズ)

「ゆうれいって、むかしの景色が見えているだけなのかもね。ずっと前、そこにいた人が、見えちゃったって感じで。」(p135)

2016年に正統派創作民話集『日小見不思議草紙』で単行本デビューし日本児童文学者協会新人賞をとった藤重ヒカルの単行本第2作。60年前にできて、いまではもう取り壊しの決まっている桜が丘団地を舞台として、不思議な出来事が展開される連作童話です。
最初にできた旧番地は人の住まない廃墟になっていて、子どもは近づいてはいけない空間とされています。40年前に新設された新番地も、取り壊しを待っています。
最初のエピソード「おくりっこ」は、もんしろちょうの化身の子どもたちが、バスに轢かれた仲間の墓を桜の花びらで作る話です。はじめから葬送の物語を繰り出して、読者に不吉な予感を抱かせます。
団地ともんしろちょうといえば、多くの人があまんきみこの「白いぼうし」を連想することでしょう。あのシリーズは、タクシーという移動する個室がこの世と異界をつなぐ境界となっていました。『さよなら、おばけ団地』では、滅びかけている団地自体が生と死のはざまにある境界として機能しています。
この作品では、時代の変化によってうわさ話が変質するさまも描かれています。団地をめぐる「情報」が作品の主人公であるといえそうです。そう考えると、「情報」を配達する存在である郵便屋さんが境界を自由に行き来できる役割を担っていることに、重大な意味が隠されているような気もします。

『となりの猫又ジュリ』(金治直美)

となりの猫又ジュリ

となりの猫又ジュリ

生まれてまだ四ヶ月しかたっていない幼犬チャルは、隣家に住んでいる猫又のジュリと出会います。ジュリは死んだ動物を空の国につながる門に導く活動をしていました。運悪くチャルには霊感があって動物や人間の霊を見ることができたので、厄介ごとに巻き込まれるようになります。
チャルは幼く、リードを木に引っかけて身動きがとれなくなっても何が起きたのが理解できないくらいぼんやりしています。そのため、ジュリには「チビのアホ犬」扱いされてしまいます。チャルが白骨化した犬の例に取り憑かれてガイコツ犬をおんぶしているように見えるところとか、ジュリがしっぽを旋回させて空を飛ぶところとか、絵ヅラとしておもしろい要素もたくさんあります。
しかし、そんな作中の空気だからこそ、幼犬には理解しにくい大人の世界や死の世界という裂け目が開いたとき、読者の背筋は凍りつきます。物語のテーマは死やペットと飼い主の愛情という重いものになっています。飼い主からネグレクトされて死んだ犬の亡霊が出てきたりします。ジュリの家は廃墟になっていて、ジュリと飼い主のあいだにもなにかがあったのであろうことが察せられます。チャルは飼い主からかわいがられていますが、最後のエピソードで思わぬ災難に遭い、愛情だけではダメなのだという問題提起もなされます。
小学校低学年くらいで読んだら、強い印象が残りそうです。

『レモンの図書室』(ジョー・コットリル)

レモンの図書室 (児童単行本)

レモンの図書室 (児童単行本)

幼いときに母を亡くしたカリプソは、父とふたり暮らし。画家であった母の部屋は、いまは大量の本のある図書室になっています。孤独な父はレモンの歴史に関する原稿の執筆に没頭中です。
文学好きの芸術家の母が残した図書室のある家という設定は、なかなかロマンチックにみえます。ただし問題は父です。妻を失った哀しみを乗り越えられない父は、娘も他人を拒絶して孤独に生きさせようと、呪いの言葉をかけ続けます。家事も半分放棄していて、家庭は崩壊寸前でした。メンタル不調な親との生活という非常にシリアスなテーマの作品となっています。カリプソはやがて、〈大人の世話をする子どもの会〉というみもふたもない名前の共助グループに入ることになります。
レモンと本の鮮烈なイメージにより、父のメンタルの危機を衝撃的に描き出しています。とはいえ、子ども向けの本でこのような問題に過度にリアリティを出すのも考えものです。この作品の描写は、子ども向けの本としてのリアリティを抑える配慮としても機能しているように思います。
幸運なことにカリプソは、文学少女の転校生メイとの出会いによって、父のカウンセリングや共助グループへの参加など適切な支援を受けられるようになりました。しかし、支援に繋ぐことはハッピーエンドではなく、スタートラインでしかありません。共助グループの仲間からカリプソは、「カウンセリングに行くとおかしくなる」という不吉な予言を与えられます。
父の問題によって、さまざまな格差が露わになります。メイの一家は裏表のない善意でカリプソと父に親切にしてくれますが、親切にされればされるほど幸福の格差を見せつけられるようでつらくなります。しかし、共助グループのなかではカリプソは恵まれた方でした。親の状態も比較的軽い方で、なにより芸術家体質の家庭で育てられたカリプソは、文化資本には恵まれています。ただしそれには偏りがあり、他の子と違ってDSやXboxに触ったこともないカリプソは、ある意味では文化資本に乏しい子であるともいえます。『グランド・セフト・オート』は最高だと力説する共助グループの仲間とカリプソのあいだには、埋めがたい溝があります。物語自体は希望を匂わせて終わりますが、現実で改善しなければならない問題は山積しています。