『徳治郎とボク』(花形みつる)

徳治郎とボク

徳治郎とボク

「ボク」(ケンイチ)と祖父の物語。祖父の徳治郎は自分の生活習慣に強いこだわりを持っていて、娘の結納の儀式中にすら決まった時間に畑に出かけたという逸話を持つ、カントっぽい人です。「ボク」は徳治郎の「ちっせぇとき」の話を聞くのが好きでしたが、祖父の体もだんだん衰えていき、やがて別れのときを迎えます。「ボク」4歳から小学校6年生まで、祖父と過ごした長いようで短い日々が語られます。
この作品のどこがいいのかというと、すべてがしみじみといいとしかいいようありません。たとえば、「ボク」がひそかに『峠の茶屋』と呼んでいた祖父と畑へ向かう山道の途中の休憩場所の描写。そこだけ木立が途切れて天気のいい日には富士山が望めるという、一気に視界が開ける気持ちよさ。そこに、以前の祖父は一気に山道を上れたのに休憩を必要とするようになってしまったという状況が加味されます。こういったひとつひとつのささいなエピソードが強烈に印象に残ります。
「ボク」は、祖父の衰えや病気に対してはまったく無力です。それは、幼いゆえであり、また人は他人の死には本質的に無力であるということでもあります。できることは、連帯していること、愛情を持っていることを態度で示すことくらいです。
徳治郎のほかにも、忘れがたい登場人物がいます。それは、「ボク」より4歳年上の従姉のエリカちゃんです。子どもにとって4歳年上はかなり近寄りがたい存在ですから、「ボク」はエリカちゃんの悩みに対しても無力です。幼いころの「ボク」は2歳年上の従姉のマイカちゃんとエリカちゃんをセットで認識していましたが、だんだん世界をみる解像度が上がってきてエリカちゃんの存在が大きくなり、マイカちゃんはほとんど視界からフェイドアウトしてしまいます。受験ストレスで「誰でしたっけ」と思えるほど外見が変わってしまい、「どこかのスイッチを切ってしまった人」のようになったエリカちゃん。祖父を観察対象とするようなシニカルな姿勢をみせながらも、どこか「ボク」と気があって祖父の話題に興じるようになります。
やはり「ボク」は無力なので、エリカちゃんのためにできることは祖父の場合と同様です。ただしここには、もう死というゴールがみえている祖父と未来の可能性を持つエリカちゃんという残酷な対比もあります。それが人生というものです。この作品はその深奥を描ききった傑作であるといえます。

『四つ子ぐらし 3 学校生活はウワサだらけ!』(ひのひまり)

四つ子ぐらし(3) 学校生活はウワサだらけ! (角川つばさ文庫)

四つ子ぐらし(3) 学校生活はウワサだらけ! (角川つばさ文庫)

「感情の種類が変わっただけよ。大きさは変わらないの」

3巻のハイライトは、長女さんのこのセリフに尽きるでしょう。これだけ重い発言ができる中学1年生、いままでどんな人生経験を積んできたのだろうかと、かえって心配になってきます。その大きさが保持されているのであれば、置換可能な感情はまた元に戻ることもありえます。まだまだ先はわかりません。
父親がふたりいることをさらっと描いた「聖クロス女学院」シリーズ、学校を卒業して何十年たってもエス関係を続けるロールモデルを提示した「こわいもの係」シリーズ。まだ歴史の浅いつばさ文庫ですが、多様な生き方を描くという点ではすでに実績を残しています。こうしたマイノリティの関係性を当たり前のことのようにさりげなく描けるのは、メインストリームの児童文学ではないエンタメ児童文庫ならではの強みなのかもしれません。姉妹のカミングアウトに対して、ちょっととまどいながらもすぐに受け入れるさまを自然なこととしてぬけぬけと語ったこの作品も、その系列に加えられます。
ということで、「四つ子ぐらし」第3巻。珍しい四つ子は学校で大人気になりますが、同時にクローンだとか超能力者だとか根も葉もない噂も飛び交うようになります。さらに、なぜか四つ子に敵対的な態度をとる新聞部が、四つ子は子どもだけで暮らしているという絶対隠さなければならない秘密を知っているようなそぶりをみせつつ接近してきて、一騒動起こります。
大人や社会が出てこない分、比較的(あくまで比較的ですが)重苦しさが薄れていて、箸休め的な茶番回になっています。2巻で本性を現した長女一花は腹の据わったところをみせ、嘘はつかないけど本当のことすべては言わないテクニックで新聞部と対決します。シリーズにはライトミステリとしての側面もありますが、四月の推理力に一花の度胸が加わって、四つ子探偵チームはかなり頼もしくなってきました。この巻でキャラクターがだいぶ増え、レギュラーキャラの湊くんの人物像も掘り下げられたので、さらに物語がにぎやかになりそうです。
とはいえ、やはり3巻にも暗さはあります。特に四月のネガティブ思考。ただネガティブ思考にはまるだけではなく、そこからこんなことを考えるのは自分だけではないかと考え孤独感にさいなまれるという流れ。メンタルの弱い人間の陥りがちな負の思考のスパイラルの描き方に無駄にリアリティがあります。このシリーズ、どこまで闇を深めていくのでしょうか。

『しずかな魔女』(市川朔久子)

しずかな魔女 (物語の王国 2-13)

しずかな魔女 (物語の王国 2-13)

「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。」という鎌倉市図書館のツイートが話題になったのは2015年のことでした。この作品の主人公の中学1年生の草子は、どこかでそれに類する呼びかけを目にして、平日は公共図書館に通うようになりました。そこの司書の深津さんから「しずかな子は、魔女に向いている」という謎めいた言葉をお守りとして渡されます。その意味を詳しく知りたくなった草子は、深津さんにレファレンスを依頼します。
西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女はとっくの昔に死に、本を司っているのはおおよそ役に立ちそうにないきかせたがりやの魔女だけ。
きかせたがりやの魔女

きかせたがりやの魔女

そういう現代の子どもは、どうやって魔女修業をすればよいのでしょうか。深津さんは草子に、『しずかな魔女』と題された、おそらく実体験に基づく自作小説を渡します。この作中作が作品の中心となります。そこに書かれていたのは、野枝という小学4年生の少女の夏の物語でした。やはり「しずかな子」であった野枝は、ひかりという少女となかよくなり、そのおばあちゃんのユキノさんから魔法を教えてもらうことになります。
ユキノさんは、他人の体や心を操る魔法を使っては行けないと厳しく戒めていました。うっかり読むと、野枝の行動も他人の心を動かしていたようにみえます。ユキノさんが禁じていたのは、「魔法」という強制力をもって人を支配することであって、野枝の行動のようなものはそれにはあたらないということなのでしょう。ここでの邪悪な魔法は、強制力を持つ制度や権力を指しているようです。であるなら、この物語を読むことで草子がそういったものから解放される展開は、希望と読めそうです。気になるのは、なぜこの物語が作中作という構造を持っているのかということです。最近出た小手鞠るいの『少女は森からやってきた』も似たような趣向になっていました。こちらは学校司書が子どもたちに向けて自分の過去を語って聞かせるという設定になっており、その内容が神聖なまでに輝かしい女子ふたりの友情の物語であったということも共通しています。「物語」というもの自体が家でも学校でもないサードプレイス、退避場所であるということを示してはいるのでしょうが、実力派のこのふたりの作家がほぼ同時期に似た趣向の作品を出したということには、もっと大きな意味がありそうです。

『モノ・ジョーンズとからくり本屋 』(シルヴィア・ビショップ)

モノ・ジョーンズとからくり本屋 (ものがたりの庭)

モノ・ジョーンズとからくり本屋 (ものがたりの庭)

「まあ、たしかにびっくりだけど、あわてずそつなくやるしかないってことね」

当たり前のことですが、本を好きになるのに資格はいりません。字が読めなくても、本を好きになることはできます。
主人公のモノは、〈白鹿亭〉という本屋を経営するジョーンズ一家に引き取られた孤児です。彼女には、家族には絶対いえない秘密がありました。それは、文字が読めないことです。でも、本のにおいや重みやページをめくるときの音を楽しんでいました。家族は、モノは当然字を読めるものだと信じ込んでいました。現実的に考えるとこれは教育ネグレクトなんですが、お話ですからそこはおいておきましょう。
さて、そんなジョーンズ一家に思いがけない幸運が訪れます。〈モンゴメリー本の王国〉という超巨大書店のオーナーになれる抽選に当たったのです。経営難だった〈白鹿亭〉を後にして〈モンゴメリー本の王国〉を手に入れた一家。でも、そんなうまい話に裏がないはずがなく、思いがけない陰謀劇に巻き込まれることになります。
この作品の一番のみどころは、本の遊園地と化している巨大書店です。ジャンルごとに部屋がわかれていて、〈飛行機の本の部屋〉はコックピットのようになっていて本は計器板のように並べられている、〈森の物語の部屋〉では本は木の上に置かれていて本物の小鳥や小動物がいるといった具合に、各部屋の装飾に工夫が凝らされています。しかも、その部屋は観覧車のような巨大な輪にぶら下がっていて、それを回転させることで各部屋を呼び出すという、大がかりな機械仕掛けになっています。
主人公のモノは字が読めない分、観察力と推理力が発達していたので、探偵役として活躍します。魅力的な舞台で一風変わった探偵が悪と戦う冒険物語として楽しむことができます。

『どこまでも亀』(ジョン・グリーン)

どこまでも亀 (STAMP BOOKS)

どこまでも亀 (STAMP BOOKS)

謎めいたタイトルが目を引きます。ここでの亀は平面世界を支える巨大な亀のことです。亀の下には亀がいて、その下にも亀がいて、どこまでも亀が続いていきます。
では、亀とはなんかのか。児童文学の見地からこの問題に答えを出すのならば、亀をもっとも愛した偉大な作家ミヒャエル・エンデを参照すべきでしょう。エンデによれば、「カメというものは歩く頭蓋」*1です。それならばこの物語は、そして世界のすべては、頭蓋骨の中の楽園であるということになります。
闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る

闇の考古学―画家エトガー・エンデを語る

アメリカの人気YA作家ジョン・グリーンの邦訳最新作。詐欺や収賄の疑いをかけられたある大富豪が失踪。彼には10万ドルもの懸賞金がかけられます。16歳のアーザはたまたま大富豪の息子のデイヴィスと知りあいだったため、親友のデイジーにデイヴィスと接触して大富豪の行方の手がかりを探るようにけしかけられます。
人気作家だけあって、設定・キャラクター造形・ストーリー運びのうまさは安定しています。デイジーは頭の回転が速く行動力もある、アーザの最高の相棒です。彼女の趣味はスター・ウォーズのファンフィクション(チューバッカとレイが恋人になるやつ)を書くこと。スター・ウォーズの話題のときになぜ過去形で語るのかと問われると「なぜなら、これたはすべて『遠い昔、はるか彼方の銀河系で』起こったことだからだよ、ホームジースター・ウォーズについて話すとき、人はみな過去形で話す。当たり前じゃん」と答えるタイプのめんどくさいオタクです。デイヴィスも文学通で家族思いの好青年で、アーザの恋人候補になります。
主要登場人物は好感度の高い子ばかりですが、なかでも注目すべきなのははやはり主人公のアーザです。デイジーによると「主要な恐怖症のほとんどをカバーしている」ということで、専門医にかかり抗鬱剤も服用しています。いつも細菌や寄生虫のことを考えていて、キスをすると相手のバクテリアが自分の身体を作りかえてしまうと恐れています。

わたしは思う。この痛みは永遠に消えない。
わたしは思う。自分の考えを選ぶのは自分じゃない。
わたしは思う。死にかけている。体のなかにいる虫が皮膚を食い破って出てくる。
わたしは思う、思う、思う。
(p99)

また、自分の存在にも不安を持っていて、物語の1行目にして「自分はフィクションかもしれない」と気づいてしまいます。

「わたしには何ひとつ決められない。外の力がそれを決める。わたしは、外の力が語る物語なんです。わたしは自分が決定できない要素で構成されている存在なんです」
(p173-174)

アーザは異常なのでしょうか。作品はアーザのぐるぐるめぐる思考を克明に追っていきます。読者はそれに引きずられ、むしろ世界に不安を持たない「普通」の側の方がおかしいのではないかと思わされるようになります。

*1:「かりに頭蓋が自立して、世界を歩きまわれるようになれば、それがカメなのです。(中略)そしておもしろいことに、すべての神秘的な流派において、頭蓋と星空にはつながりがあります。人間において頭蓋であるもの、つまりミクロコスモスにおいて頭蓋であるもの、それがじっさいマクロコスモスにおいては宇宙であり、星空なのです。そしてその星空をカメはこの世で、より小さなミクロコスモスとして背負って歩き、その代理人となっているのです。」丘沢静也訳『闇の考古学』(1988・岩波書店)より

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(斉藤倫)

カップめんにお湯を入れていたりレトルトカレーをお湯に沈めていたり、必ず「ぼく」がものを食べようとするタイミングに「きみ」はやってきます。そして、「ぼく」と詩や言葉をめぐる対話をして帰って行きます。
作品の雰囲気の懐かしさは、00年前後の理論社YAの空気を思い出させることによるのでしょう。いしいしんじの『ぶらんこ乗り』や可能涼介の『はじまりのことば』のような、幼年性や少年性を装ってことばや世界についてふわっと考察を深めていくようなタイプの作品群と同じようなにおいが感じられます。小学校高学年や中学生のちょっと知的に背伸びしてみたいという欲求に応える作品はいつの時代も必要ですから、この作品の登場は歓迎したいです。
「ぼく」は、さまざまな名詩を紹介しながらその楽しみ方をことばで解きほぐしていきます。詩に苦手意識を持っている人はとにかく詩はわけのわからないものだという先入観を持っているものなので、こうやって理詰めで解説するアプローチは効果がありそうです。
そして作品は、言葉と文学をめぐる人間の切実な願いに踏みこんでいきます。

「でも、ひとが、もじをつくったのも、こころや、できごとを、のこそうとしたからなんだ。そのおもいが、じぶんといっしょに、ほろびてしまわないように」(p49)

作中の人間関係については明確な説明はなされていませんが、「ぼく」の親友が「きみのおとうさん」であり、「きみのおとうさん」は早世の詩人であったという設定になっています。大人の読者であればここで、著者の斉藤倫と親交のあった笹井宏之のことを思い出すのではないでしょうか。そういった予断を持って読むと、最後に「えいえん」ということばがひらがなで祈りのように記述されていることが、なにかのオマージュなのではないかと思われます。ゆびをぱちんとならしているあいだに「きみ」は成長し「ぼく」は年老いて死に、やがて「きみ」も死んでしまう、そんなはかない人生にどんな意味を見出せばいいのかという難問。

えーえんとくちから (ちくま文庫)

えーえんとくちから (ちくま文庫)

もちろんこうした読みは、背景の知識を持たない本来の読者には無関係です。でも、はっきりとは語られない作中の人間関係に想像力を及ぼし、なにかを感じ取ることはあるのではないでしょうか。

『海のコウモリ』(山下明生)

海のコウモリ

海のコウモリ

朝鮮戦争の時代、人の鼻を噛んで殺す〈ハナクイ〉という連続殺人鬼の噂で持ちきりになっている瀬戸内海の島を舞台にした物語です。
主人公の9歳の少年は、〈ハナクイ〉に襲われたと思いこんで逃げているうちに竹のクイに鼻をしたたかぶつけて気絶してしまいます。そこを、聾唖者で島のはぐれ者のヒデヤスに助けられます。ところが、そのことを仲間に話してからからかわれているうちに、こともあろうに〈ハナクイ〉の正体はヒデヤスではないかという疑惑を口にしてしまいます。子どもたちは調子に乗って〈ハナクイ〉退治を計画。それは、伝馬船でヒデヤスのいる洞窟に行って石を投げ、ヒデヤスが出てきたら棒で殴って半殺しにして投げ縄で生け捕りにしようという、残忍きわまりないものでした。
ストーリーを要約すると、「少年が被差別者に冤罪を押し付けた挙げ句リンチまでして、最終的に被差別者は……」という、まったく救いのないものになっています。
〈ハナクイ〉の正体は最後まで明らかになりません。物語の冒頭では、島に伝わる鬼やテングやエンコ(かっぱ)やコートリ(子どもさらい)といった化け物について言及されています。また、〈ハナクイ〉の犯罪のうち女性が被害者になっているものは、米兵による犯罪なのではないかと予想する人物も登場します。そして、子どもの心のなかにも悪は存在します。空想上の化け物も正体不明の殺人鬼も現実に存在する様々な悪も物語の中でとけあって、この世には悪が偏在しているという漠とした不安なイメージが残ります。
島の子どもたちの遊びや島の情景は情緒的に描かれている一方で、子ども間のシビアな力関係などはリアルに描かれています。宇野亜喜良の耽美的なイラストも作品世界を彩っています。情緒面で捉えても現実的に捉えても、どちらにしても濃密な印象を残す作品になっています。