『ぼくたちの緑の星』(小手鞠るい)

ぼくたちの緑の星

ぼくたちの緑の星

「教室内では、質問は禁止されています。決められたことには従う。ジュウゾクする。それがこの社会の決まりです。
私たちは今、ひとつの大きな『ゼンタイ・モクヒョウ』に向かって、大人も子どもも、みんなで力を合わせて、進んでいっているのです。だから、決まりを守ることが、ジュウゾクが、なによりも重要なのです。」

小手鞠るいによるディストピアSFです。現在の日本ではディストピアSFはリアリズムと同義になっているような気もしますが、とりあえずディストピアSFということにしておきましょう。
作品世界では、いろいろなものが消えていきます。人々は名前を失い、数字とアルファベットを組み合わせた記号で呼ばれています。学校では音楽の先生が消え音楽の授業がなくなり、図書室の先生が消え本も燃やされます。そんななかで主人公の少年は、「アンモナイトくん」と呼んでいるかたつむりのかたちをした通信機を隠し持っていて、「1962121GS」なる謎の人物とコンタクトを取り、世界に反抗します。
作品世界を満たすのは喪失感と、消えたものを愛しく思う気持ちです。『ハローサマー、グッドバイ』などの諸作でリリカル・破滅・ディストピアのイメージのついているSF絵師片山若子のイラストがぴったりで、特に子どもたちが図書室の本を焼却炉に運ぶ場面は、読者の感情を揺さぶります。
ただ、全体的な雰囲気はよいのですが、結末がちょっと。正しい心を持った人々はアセンションできますよみたいなオチは安易に感じられました。

『青春ノ帝国』(石川宏千花)

青春ノ帝国

青春ノ帝国

どんな年齢の人間にもその年齢なりの醜さはありますが、14歳の醜さは特に直視がはばかられるものです。石川宏千花は読者の口に手を突っ込んで内臓を引きずり出しそれを見せつけ、おまえはこんなに醜悪な生き物なのだとささやきます。
放課後の職員室、教員をしている関口佐紀のもとに、一本の電話がかかってきます。その電話は、中学2年生の一時だけ深い関わりのあった同級生の奈良比佐弥から、彼の叔父の久和先生の訃報を知らせるものでした。電話をきっかけに、佐紀は鬱屈していたあのころを一気に回想していきます。
久和先生がやっていた《科学と実験の塾》に佐紀の弟が通っていて、送り迎えをしていた佐紀も久和先生や奈良くんと関わりを持っていました。劣等感のかたまりで学校に居場所のない佐紀にとって、ここがたったひとつの避難所となっていました。
学校での佐紀は、クラスのカーストの最下層。同じく下層の峯田さんとつるんでいましたが、それは仕方なくで、峯田さんが貸してくれた本をずっと放置するような薄情な態度を取っていました。クラスのカースト上位には上原沙希という子がいるので、クラス内で「さき」といえば自分ではなく上原さんということになっていました。佐紀は上原さんに激しい嫉妬の念を抱いていました。そんななか美容院で上原さんと同じ髪型にされてしまったため真似をしているとクラス内で蔑まれ、さらに学校に居づらくなります。
他人に悪感情ばかり抱いている佐紀ですが、彼女が最も憎しみを抱いていたのが、百瀬さんという《科学と実験の塾》で助手をしている30歳の女性でした。若々しく愛嬌たっぷりで、7歳年下の「だんなさん」とラブラブだという百瀬さんは、佐紀からはなんの苦労もない満たされている人にみえました。佐紀にとっては、満たされているというだけで憎しみの対象にするに十分な罪悪なのです。
佐紀は悪人ではないので、きっかけがあれば自分の感情の理不尽さを反省することもできます。しかしその善良さがさらに佐紀を押しつぶそうとしてきます。前半はとにかく重苦しいです。
後半からは、だいぶ物語の様相が変わります。絶望が希望に反転するという奇跡が、佐紀にも訪れるのです。しかし一方で、希望が一瞬で絶望に変わるという人生のままならなさも味わいます。そして、青春という帝国に閉ざされている環境で共に戦う同志を得ていきます。
人生の蜜と毒を描ききったなかなかの力作でした。きれいな思い出を「永遠」に閉じこめてしまうという後ろ向きさもまじえつつ、希望と痛みを抱え生きていかざるを得ない人間の姿が、切なくも美しく描き出されています。

『エミリーとはてしない国』(ケイト・ソーンダズ)

エミリーには、長い闘病生活を送っているホリーという姉がいました。エミリーはホリーとクマのぬいぐるみのブルーイが一緒にスモカルーンという魔法の国で冒険をする話を考えて、いつもホリーにきかせていました。ところがホリーが亡くなり、同時にブルーイも話をしなくなりました。そんなある日、エミリーはホリーの部屋で、みたことのないペンギンとクマのぬいぐるみが動いているのを発見します。この2体もスモカルーンの住人で、そこにはいまもブルーイがいることを知らされます。
喪の物語ということになるので、作中は悲しみが基調になっています。ただし、子ども向けの物語がそれだけではあまりにもつらすぎるので、蜜もたっぷり塗られています。
ペンギンとクマのぬいぐるみが仲良くしているアンティークショップの店主の亡くなった息子のものであったことがわかったり、そもそもスモカルーンはC・S・ルイスがモデルになっているジョン・ステイプルズという作家が想像したものであることがわかったりと、魔法の世界の謎が徐々に明らかになっていく展開が興味を引きます。
そして、ぬいぐるみワールドで巻き起こる騒ぎの楽しそうなこと楽しそうなこと。ペンギンの集団がダンスパーティーをしたり、パイ工場に見学に行ったぬいぐるみたちがパイ投げ合戦を始めたり。北見葉胡のイラストが無表情なぬいぐるみたちを表情豊かに描いていて、楽しさを増幅させています。
ただし、魔法の国は生者にとっては彼岸なので、越えられない線は引かれます。

『SFショートストーリー傑作セレクション 怪獣編』(日下三蔵/編)

日下三蔵編による児童向けSF短編アンソロジー2期第3弾は、「怪獣編」。ここでの怪獣は一般にイメージされるゴジラガメラのような巨大怪獣ではなく、様々な意味でのモンスターがセレクトされています。そのため、シリーズのなかでもかなりトラウマ度の高い本になっているように思われます。
トップバッターは、筒井康隆の「群猫」。この作品はまず、冒頭のカメラが物語の舞台に移動するまでの描写がむちゃくちゃかっこいいです。体言止めで大都会の様子を写生し、地上1階、地下1階、地下2階と、だんだん下降していって、舞台となる闇の世界に到達します。そこで繰り広げられるのは、テレパシー能力を持つが非力な猫の群れと、巨大鰐の死闘です。血みどろの戦いのあとの、凄惨でありながらリリカルな美しさを持つラストも忘れられなくなります。
2番目は、眉村卓の「仕事ください」です。読者のメンタルを最も蝕むのはこの作品でしょう。不遇なサラリーマンが奴隷を求めると、本当にその願望が具現化してしまいます。しかし現れた奴隷の男は仕事をいくら与えてもすぐに終わらせ、「仕事ください」とつきまとってきます。この作品が発表された1966年は、ストーカーという言葉が日本で普及するはるか前です。当時の読者は現代の読者よりさらに薄気味悪さを感じたことでしょう。
次が星新一の「弱点」。何をしても殺すことができず無限に増殖する謎の宇宙生物の対処法を探る話です。オチの悪趣味さと後味の悪さは、星新一作品のなかでもトップレベルです。
次は福島正実の「マタンゴ」。漂流し島にたどり着いた若者たちが、キノコに寄生されるホラーです。キノコの怪物もおそろしいですが、極限状況で集団がどんどん狂気に陥っていくさまの描写がエグいです。これを小学生に読ませようと思った日下三蔵の英断に敬意を表します。
最後は、小松左京の「黴」。人類の英知で巨大怪獣に立ち向かう話なので、これが怪獣ものといわれて一般にイメージされるものに最も近い作品だといえるでしょう。ただしこの怪獣は銀色の工業製品のような形状のもので、やはり一般的なイメージとはずらされています。怪獣の正体に徐々に迫っていくさまがスリリングで、読んでいるあいだ常に知的な興奮を感じられる小松左京作品の醍醐味を味わえます。「見方によっては、――人類だって……」と、想像力を彼方に飛翔させるラストもよい余韻を残します。怪獣テーマのアンソロジーのトリを飾るのにふさわしい作品です。
このシリーズでは、優れた読書案内になっている編者解説も見逃せません。今回最後に紹介された作品は、よりによってクトゥルーに関する最悪のだじゃれが登場する田中啓文の某作。ここがこの本の真のオチになっています。

『朔と新』(いとうみく)

朔と新

朔と新

弟が事故で視力を失った兄の伴走者になり、兄弟でブラインドマラソンに挑戦する話です。障害者スポーツと兄弟の絆で感動が倍増、感動ポルノを好む大人の読者がたくさん寄ってきそうなパッケージの作品になっています。しかし著者は曲者のいとうみく。一筋縄でいくはずがありません。
新と兄の朔は、田舎へ向かう高速バスで事故に遭いました。新は軽傷でしたが、朔は意識不明の状態で病院に運ばれ、一命は取りとめたものの視力を失ってしまいます。本来は兄弟は両親とともに帰省するはずでした。しかし新は友だちとの約束を入れていたので帰省を嫌がります。そこを、兄の朔が自分も彼女との約束があるから二人で遅れて帰省しようと提案し、高速バスを利用することになりました。
母親はもともと兄弟の扱いにあからさまな差をつけていて、新に対する関心はほとんど無でした。事故以後は、新のせいで朔が障害者になったのだと思い、新に憎しみを抱くほどになります。
そして、兄の方にも問題がありました。そもそも彼女と約束があるというのは、新のために気を利かせてついた嘘でした。この行為は一見親切にみえますが、相手の意向を気にせず先回りをして道筋を決めてしまうのは、相手の人格を認めていないのと同じです。新は毒母と毒兄(とまったく存在感のない父)に囲まれたたいへんかわいそうな子どもだということになります。
美談のように見せかけて実は『カーネーション』路線の家族ホラーでした。家族の絆に対する幻想に冷や水を浴びせるいとうみくのスタイルは、さすがです。
ところで、新が将来親になったときに『カーネーション』の母親のようになったら怖いですね。

『はじまりの夏』(吉田道子)

はじまりの夏 (読書の時間)

はじまりの夏 (読書の時間)

  • 作者:吉田道子
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本
小学5年生のぽぷらは父親と死別し、母親とふたりで暮らしています。最近のぽぷらの悩みは、母親が再婚を考えていること。相手も妻と死別しており、子どもがふたりいました。ぽぷらは再婚を受け入れようとしますが、相手の子どもが厄介で、新しい家族の構築は難航します。
母親がぽぷらに再婚の話をする場面、母親は子どもは未来でパートナーは現在であり、異なる時間を生きる者には地層のような違いがあるがそれが重なって今という時間があるのだと、理屈っぽい講釈を垂れます。その背景には、夏休み子ども科学電話相談のラジオが流れています。ぽぷらに浴びせられる情報量は膨大なものになりますが、結局ぽぷらは家出という、ちょっと飛躍しているようにも思える決心を軽やかにします。
ぽぷらはかつて父親と出かけた山のプールを旅の目的地とします。ところがそこはすでに廃墟になっていて草で荒れ果てていました。そして、土が盛り上がったようになっている犬の死体に草が青々と生えているさまを目撃します。
なんやかんやありますが、新しい生活にいざこざは絶えません。しかし作品は、その混乱を動的なものとして肯定します。そして名字についてもめたときは、「総称」という新しい名字のようなものをつくるという先進的なアイディアを、しれっと実現してしまいます。
小学生の夏休み、家族の歴史性と時間、あらゆる描写に厚みがあり、120ページほどの短い作品ながら読み応えは十分でした。

『おいで、アラスカ!』(アンナ・ウォルツ)

おいで、アラスカ! (フレーベル館 文学の森)

おいで、アラスカ! (フレーベル館 文学の森)

スウェンとパーケル、中学校で同じクラスになったふたりが交互に語り手を務める構成になっています。ふたりのつながりは、アラスカという犬との縁でした。パーケルはアラスカの元の飼い主でしたが、いまではアラスカはてんかんを患っているスウェンの介助犬になっています。パーケルはスウェンはアラスカの飼い主にふさわしくないと考え、深夜にフェイスマスクをかぶってスウェンの部屋に押し入りアラスカを誘拐しようと画策します。
覆面かぶった女子が夜な夜な男子の部屋に入りこむという奇行はインパクトが強いです。しかし、世界への最低限の信頼を失ってしまった子どもというテーマは深刻です。てんかんの発作を起こした瞬間に周囲の人々の視線が変わり、その後の自分には被差別者という役割のみが与えられるということを、スウェンは知っています。パーケルの方は、両親のやっている店に強盗が入ったことがトラウマになっています。刑務所に入っている人のうち男性の割合が高いのにみんながそれを気にしないことをおそれるような極端なミサンドリー思想に陥るまでに、パーケルの精神は追い詰められています。ふたりとも、1秒後には世界が終わってしまうかもしれないということに常におびえているのです。
まだ捕まっていない強盗を追う冒険もありつつ、ふたりの距離がだんだん縮まっていく様子は感動的です。ただし、最後のあれは否定しておきたいです。ああいう同調圧力の産物は、差別を克服する手段たりえません。