『ネムノキをきらないで』(岩瀬成子)

おじいちゃんの家のネムノキが伐られることになり、伸夫は悲しみにくれていました。ネムノキの件と、ドアを閉めたときに偶然クモを殺してしまったこと、このふたつの出来事にショックを受け、伸夫は言葉をうまく発することができなくなってしまいます。

ぶつかりあったことばは、のどのあたりでかたまりになってしまっていて、口にはどんなことばものぼってこなかった。(p8)

口にだしてなにかいおうとすると、とたんにそのことばの意味がわからなくなってしまうのだ。元気っていうのはどういう感じのことだっけ、と思ってしまうのだ。(中略)自分がそんなあやふやな感じでいることを一体どうやって先生に説明することができるんだろう。そう考えただけで、もうどんなことばも浮かんでこなくなるのだ。
(p34-35)

子どもの未熟さや混乱ゆえにうまく言語化できないことを明晰に翻訳してみせること、これも子どもの本の役割のひとつであると思います。最近の作品では、森絵都の『あしたのことば』がそんな役割をうまく果たしていました。ただし、この役割は文学でなくても果たすことができます。言葉にできないことをそのまま受け止めることこそが、文学にしかできないことなのではないでしょうか。そんなことを考えされられる作品でした。
テーマがテーマだけに、作品は観念的な方向に傾きがちです。ただし、伸夫を理解しない大人との対立や、そんな伸夫のそばにいてくれる幼なじみの芳木くんの存在、動物病院の医者の家の庭に犬猫のゆうれいがでるといううわさなど、補助線になる要素がいくつもあるので、読みにくさは感じさせません。岩瀬成子の完全に観念寄りの作品といえば、現代児童文学最大級の奇書である『あたしをさがして』ですが、この『ネムノキをきらないで』はそんな作品を理解するための有力な手がかりになりそうです。

『オール・アメリカン・ボーイズ』(ジェイソン・レノルズ ブレンダン・カイリー)

黒人の少年ラシャドと白人の少年クインのふたりが交互に語り手を務める構成の作品です。店で万引きを疑われたラシャドは無抵抗にも関わらず白人警官のポールに執拗に暴行され、鼻や肋骨を折る大けがをさせられます。クインはたまたまその様子を近くで目撃していました。クインの所属するバスケチームの友人であるグッゾの兄が暴行犯のポールで、以前いやなやつをポールにぶちのめしてもらった恩もあったので、クインはとりあえず事態にはあまり関わらないようにします。
突然の不条理に見舞われたラシャドの心情を、作品は克明に追いかけていきます。

おれは被害者なんだけど、それでも正直なところ、もうかまわないでほっといてくれよって言いたい気持ちもあった。

被害者という立場を否応なく与えられることの理不尽さ、どうせ警官は裁かれず同じことが続くのだという諦観、怒りに燃えすぐ行動を起こそうとする兄との距離、状況のなかでラシャドは身の置き所を見失います。瞬く間に拡散される暴行現場の動画も、それが自分にとってなんなのか理解することは困難です。それでも、周囲の支えもあり、自分なりの抵抗の方法を探っていきます。
クインの方も、難しい立場です。彼は決して裕福ではありませんが、バスケで成り上がりたいという夢を持って生きています。ラシャドとの大きな違いは、ポケットに手を入れただけで警官に射殺されるかもしれないという恐怖とは無縁でいられることです。一番楽なのは、現状に流されること。しかしクインも、自分のやり方を見直さざるを得ない状況に追いこまれます。

バスケとそれ以外の生活を分けられないのは、現在と歴史を分けられないのと同じことだ。この国に人種差別があるのなら、どこかにそこだけ差別のない場所なんてあるわけがない。

なにより力を持つのは、事実の重さです。イギリスでは人種に関わらず警官に殺された人の数は年間1名。それに対しアメリカでは週あたり2名の黒人が白人警官に殺されているということ。そして、殺害された人々にはそれぞれ名前があったのだということ。物語のクライマックスは現実の抵抗運動とも重なり、読者の感情を強く揺さぶります。
ラシャドパートは黒人作家のジェイソン・レノルズ、クインパートは白人作家のブレンダン・カイリーが担当する共作の形式の作品。この試み自体に分断を乗り越えようという祈りと決意がこめられています。

『メイド イン 十四歳』(石川宏千花)

メイド イン 十四歳

メイド イン 十四歳

語り手は県内トップレベルの進学校に通う14歳の吉留藍堂。彼は担任の先生から、季節外れの転入生のお世話係を依頼されます。転入生の浅窪沙斗は、先天性可視化不全症候群という奇病にかかっていて、フィクションに登場する透明人間のように包帯ぐるぐる巻きの姿で登場します。その奇病は相手の脳に干渉して視覚処理にエラーを起こさせ、結果相手からは透明人間のようにみえるようになるのだといいます。藍堂は得体のしれない転入生への差別がエスカレートし、やがて暴動に発展するさまを目撃することになります。
藍堂の語りは、理屈をこね回し自分を高いところにおいて周囲を観察するような態度のもので、斉藤洋作品の語り手を思わせます。開始1ページで藍堂は自分は女子が嫌いだから男子校を選んだのだと語り、自らがミソジニストであることを告白します。こうしたホモソーシャルへの親和性の高さも、斉藤洋作品に近いです。
あらかじめお断りしておきますが、わたしはこの作品について感想めいたものを記すことができません。というのも、この作品の語りには疑わしい点が散見されるので、それを解明しないことにはなんとも語りようがないからです。よって以下の記述は、論点整理程度のものにしかなっていません。
この作品の難しさは、作中に様々なレベルの虚構が入り乱れており、語り手の語りを信頼できない点にあります。作中には藍堂の愛読書である重要な作中作が登場します。これは比較的明確に虚構であると理解できそうです。
作中ではふたつの現実離れした出来事が起こります、ひとつはいうまでもなく先天性可視化不全症候群という奇病です。藍堂がアジールとしている《兎屋》という釣り堀の常連客は、探偵役のようにそれが詐病である可能性を示唆します。この場面では、同時に藍堂が仕かけた罠に鯉がかかりもがいている様子が記述されます。これは藍堂が犯人側の人間であり、探偵役がまんまと犯人が仕かけたフェイクの推理を語らされていることの暗喩のようにみえます。
ここで参照しなければならないのは、石川宏千花の『わたしが少女型ロボットだったころ』(2018・偕成社)です。『少女型ロボット』の主人公は自分がロボットであることを思い出した少女で、それは思春期のメンタルの不調による妄想であろうというのが大方の読みでした。しかし「日本児童文学」誌の創作時評で東野司が、これは事実であるという読みを披露しました。これを参照すると、先天性可視化不全症候群もガチである可能性を慎重に検証しなければならなくなります。
もうひとつの現実離れした出来事は、アリスが兎に不思議の国にいざなわれたように、《兎屋》の鯉が藍堂を向こう側の世界に誘惑した事件です。これも藍堂の脳内の出来事ととるのが常識的な解釈ですが、上記の事情を考慮に入れると、この判断も難しくなります。
藍堂は現実や他人は自分の解釈によって確定されるという考え方を好んでいます*1。藍堂は自分と世界や他人との距離、現実と虚構の距離について独特の考え方を持っているようです。さらに、沙斗の発言によって作中にイマジナリー・フレンドという概念が導入されます。こうなるともう、作中のなにが現実でなにが虚構なのかの判別は困難になります。
ところで、藍堂は「」『』の使いわけについて独特の好みをもっています。作中作内のセリフは『』、人語を話す鯉のセリフは『』、過去のセリフ*2は『』にしているようです。前二者のみであれば、虚構のなかのセリフを『』にしているのだろうと容易に予想することができますが、最後のが加わるとわけがわからなくなります。
また、書籍のタイトルは『』でくくるのが慣例ですが*3、作中作の《フーアーユー?》《サニーの黙示録》《うそ使い》*4は《》でくくられています。そして不思議なことに、《兎屋》も《》でくくられているのです。やや飛躍してしまいますが、《》でくくられるのが藍堂が虚構だと認識しているものだと解釈するなら*5、藍堂にとってあまりにも都合のよいアジールである《兎屋》はイマジナリー・アジールで、そこの常連客たちもみんなイマジナリー・フレンドであるという想像もできます*6
語り手が馬脚を露していると思われるもっとも重要な箇所は、沙斗が書いたエアメールの文面です。ここで沙斗は、藍堂と同じく書名を《》でくくるという独特の記号の使い方をしています。つまりこれは『床下の小人たち』オチで、ふたりは同一人物、どちらかがどちらかのイマジナリー・フレンドであったという想像もできます*7
ということで、現時点でいえることはふたつだけです。この作品の語り手は全く信用できず、作中の虚構のレイヤーを操作している可能性があるということ。作中の独特の記号の使い方がそれを解明するための手がかりになりそうだということ。これだけです。わたしの力量ではこれ以上のことは語れないので、識者の見解が出るのを待ちたいと思います。

*1:p53の「当てたセリフ次第で、浅窪くんはぼくがイメージしたとおりの浅窪くんになる」。p101の「過去は変えられる」というパンダの発言。p186の「ぼく次第ってことですか」という発言などにこの思想がみられる。

*2:p148の医師のセリフのように、リアルタイムと区別する必要ないように思われるほどの近過去のセリフも含む。

*3:出版社の紹介文では、ご丁寧に『』に修正されている。これはかなり意味ありげにみえる。

*4:ここで『うそ使い』というタイトルをだすのも、わざとらしい。

*5:さらにめんどくさいのはもうひとつ《》が使われているパターンがあって、p101では人と知り合うことを読書にたとえ《吉留藍堂》《浅窪沙斗》とされていることで。

*6:ただし、そうだとすると《兎屋》常連客のセリフはみな『』でくくられるべきとも思えるので、この想像は説得力に欠く。

*7:ただしこれも上記の理由で破綻する。この説を主張するには、整合性がとれるように「」『』の使いわけの法則を明らかにする必要がある。

『枕草子 平安女子のキラキラノート』(福田裕子)

高校生くらいの子が古典を勉強したいと言い出したら、どの本をすすめるでしょうか。そんなときはやはり、わかりやすくて気軽に手に取れる角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス」が一番です。初学者にフレンドリーなのが角川のスタイル。その姿勢は、角川つばさ文庫の『枕草子』でもみられます。親しみやすさの点でいえば、現在手に入る児童向けの『枕草子』のなかで抜群です。
史実とか時代考証とか細かいことは二の次、わかりやすさ親しみやすさが最優先事項であるというのがこの作品のスタンスです。
なにしろ清少納言は「ナゴンちゃん」で、同僚のモブ女房は「イセちゃん」「エモンちゃん」などと呼ばれています。類聚的章段が主になっていて、女子の本音毒舌トークが展開され、笑いながらテンポよく読み進めることができます。
たとえば女子トークの定番恋バナなんかは、こんな具合。

「ところでナゴンは、好きな人、いるの?」
「ええとね……私、離婚してるんだ」*1
「「「ええええ!?」」」

いや、知ってたけどさ。予備知識を持たない読者がこのノリでこの情報出されたら相当おもしろかろうと思います。この作品、年号とかそのときの清少納言や定子さまの年齢のような、具体的な情報はほとんど出てきません。イラスト上は定子さまの方がナゴンちゃんより年上のようにすらみえます。おそらく小学生の読者は、ナゴンちゃんたちを高校生くらいのお姉さんだと思って読んでいくのではないでしょうか。情報を刈りこむことで初学者に負担を与えないようにする工夫が徹底しています。

思い出のマーニー』をこんなふうにする角川つばさ文庫なので、イラスト含め百合度は高いです。ただし、ここでも史実は重視されません。雪山のエピソードなどは、史実を知っていればさすがの定子さまも不幸続きでメンタル病んであんなことをしたのではと思えますが、この作品では定子さま好き好きエピソードがまとまっているパートに含めているので、だいぶ空気が違っています。ナゴンちゃんのお調子者っぷりをいさめる意図と、ナゴンちゃんへの寵愛が強すぎると周囲に思われるとまずいのでセーブするためという、定子さまの深い愛が伝わるエピソードとしています。
終盤まで楽しい日常パートが続き、最後の最後だけ悲劇の片鱗をみせる構成が憎いです。ただしここも、伊周や隆家のやらかしなどの具体的な情報の言及は避け、本文中では悲劇の予感を匂わせる程度、途中差し挟まれるコラムで必要最小限の情報を提示するにとどめています。そしてラストに枕草子最百合エピソードの「殿などのおはしまさで後」を配置し、キラキラした世のなかで「一番の光」は定子さまであるという世界の真理をナゴンちゃんに刻みつけます。悲劇性は最小限に抑えながらふたりの絆を強調して締める構成は、美しいとしかいいようがありません。
情報を絞り初学者をキャパオーバーにしないように配慮しつつ、楽しさとエモは雰囲気できちんと伝えています。これはエピソードを厳しく取捨選択し構成を練りこまないとなしえない高度な技です。小学生向けに『枕草子』をすすめるならはじめの1冊はこれ、これを読んでもっと学びたいという子は時系列になっていて史実とのつながりがわかりやすい令丈ヒロ子訳(岩崎書店ストーリーで楽しむ日本の古典版)や時海結以訳(講談社青い鳥文庫版)に誘導するのがよさそうです。

*1:ちなみに、元夫に対するコメントは、「いい人だ。ただちょっと、歌を詠むセンスがなくて、おしゃれとか全然興味なくて、おしゃべりも上手じゃなくて、気が利かなくて、ぼーっとしていて一緒にいてもちっとも楽しくないだけで……。とにかく本当にいい人なんだ」と。きっと本当にいい人だったんだろうな。

『若おかみは小学生! スペシャル短編集3』(令丈ヒロ子)

若おかみ短編集の3巻。中2のおっこが水領さまのいとこに惑わされてしまう「キラキラすぎる!? 「恋」アプリ」と、おっこの娘として転生し前世の記憶を失った美陽が主人公となる「若おかみは三代目!」の2作が収録されています。
「キラキラすぎる!? 「恋」アプリ」は、2020年のいつもとは違う夏休みを過ごす子どもたちに向けたWEB連載企画「Story for you」掲載作をふくらませたものです。そのため、おっこもマスクをしていて、春の屋旅館でもリモート宴会プランやテレワークおこもりプランが企画される世界となっています。真月さんは通常営業でピンふりマスクをしているのはご愛敬。おなじみのキャラクターたちもマスク生活をしている様子をみて、多少なりとも不安が軽減された子どもはたくさんいるものと思われます。
「若おかみは三代目!」は、美陽が転生したみくるの中1時代の物語。真月さんの娘の星良、よりこの娘のイチカも同級生で、3人でVR第二研究会というVRゲームをしつつまったり過ごすだけのやる気のない部活をしていました。みくるは頭のかたい古おかみのおっこでなくゴージャスで先進的な真月ママ様を崇拝していて、古書を愛する地味派マイペース女子の星良はむしろおっこが好きで、イチカイチカで元アイドルで現在は医師として活躍している知性派美女の鞠香先生に憧れています。そして、みんな生まれてくる家を間違えたと嘆いています。
これが二代目に主役交代した児童文学のつらいところで、『魔女の宅急便』のキキなんかも、母親になってしまうと自分の子どもにはつまらないことしかいえなくなってしまっていました。みくるは春の屋旅館に新しい客を呼びこむため真月ママ様のように斬新な企画を立てようとしますが、昔からの客を大切にしようとするおっことは衝突してしまいます。
ここで問題になるのは、おっこの持つ二重の保守性です。おっこはもともとおばあさんのような女子でしたが、老舗の春の屋旅館と温泉町を存続させる使命感からさらに保守的になっています。もっと問題なのは、小学生のあの時期の特殊な体験です。成長することのないユーレイのウリ坊と美陽と過ごした日々のせいで、停滞を志向する心性が強化されました。大人になってもその性質はそのままで、小川未明安房直子の童話に出てくる人物のように、なにかあると異界に引きこまれそうになる危うさを持っています。ただし、家族や地域とのつながりがおっこをきちんと現世に引き留めてくれるので、そこはあまり不安に思わなくてよさそうです。
しかし、美陽は選ぶことができたんだから、真月さんの娘になればよかったのに。転生して記憶を失ったとはいえ、実の妹を「ママ様」と呼んで崇拝する倒錯を描いてしまえるところに、令丈ヒロ子の百合児童文学作家としての業の深さが感じられます。

『魔笛の調べ ドラゴンの来襲』(S・A・パトリック)

魔法使いや魔法の曲を操る笛ふき、ドラゴンなどの怪物がいる世界を舞台にしたファンタジー。人間の子どもだけでなくドラゴンまでも餌食にしたハーメルンの笛ふきの事件が大災害のように扱われていて、それを捕縛した追跡隊がその人数から〈八人〉と呼ばれ英雄視されていました。主人公の笛ふきの少年パッチは、ネズミ退治のために禁じられた曲を演奏して投獄されます。パッチが入れられた地下牢にはみんなから忌み嫌われ恐れられているあのハーメルンの笛ふきも、鉄仮面をつけられて幽閉されていました。そこをドラゴンの群れが復讐のために襲撃、パッチは混乱に乗じて脱獄し、追われる身となります。
ハーメルンの笛ふき男の伝説は、多くの人々の想像力を刺激しています。訳者あとがきで紹介されている阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』も名著ですし、児童文学読者であればエンデの『ハーメルンの死の舞踏』を思い出すことでしょう。そうした最高の素材をメインとし、さらに古城の地下牢に閉じこめられた鉄仮面の囚人・死骸で作るマジックアイテム・死の呪い・魔女が操る人形など、いささか古風な怪奇趣味で味付けがなされています。
登場人物は癖のある人物が多くて楽しいです。まず主人公のパッチが、軽はずみに禁呪を使ってしまうような人物で、まったく信用できません。パッチの仲間になるレンは、魔法でネズミの姿にされてしまった女子ですが、彼女も嘘つきでいい根性をしています。ドラゴンの母とグリフィンの父を持つドラコグリフのバルヴァーが、見た目はごついけど仲間のなかでは唯一の癒やし枠になっています。
1巻の時点では、斬新さや深いテーマ性は特に見当たりません。でも、そこがいいのです。冒険活劇ファンタジーとしてただ物語のうねりに身をゆだねるのが、この作品の正しい楽しみ方です。三部作のようなので、無事最後まで翻訳が出ることを祈ります。

『ワタシゴト』(中澤晶子)

ワタシゴト 14歳のひろしま

ワタシゴト 14歳のひろしま

  • 作者:中澤晶子
  • 発売日: 2020/07/17
  • メディア: 単行本

ワタシゴト
渡し事(わたしごと)=記憶を手渡すこと
私事(わたくしごと)=他人のことではない、私のこと
(カバー袖より)

修学旅行で広島の原爆資料館を訪れた中学生たちを主人公とする連作短編集。中学生たちはそれぞれテーマを決めて綿密に事前学習をしており、展示されている弁当箱やワンピースなどに並々ならぬ思い入れを抱いて修学旅行に臨んでいました。
作品の意図は、カバー袖にあるとおりです。戦争を天下国家のこととして捉えるのではなく、ものを媒介として現代の私事と過去の私事をつなぐという試みがなされています。これを成功させるためには私事を描ききる小説としての強度が求められますが、異色作家として児童文学界で独自の地位を築いている中澤晶子はみごとにその難業を成し遂げています。たとえば、ほぼ育児放棄をしている母親が気まぐれで作った弁当にムカついて弁当箱をテーブルからたたき落とした男子が、原爆で真っ黒に焼けた弁当と対峙する私事と私事の偶然の邂逅など、えもいわれぬ迫力があります。
なかでも特異な短編が、第4話の「いし」です。岩石が好きな和貴は、爆熱による石や瓦の変化に興味を持って熱心に事前学習に取り組んでいました。以前河原で焼けた瓦が発見されたことを知った和貴は、周りの迷惑も顧みず先生や他の生徒も巻きこんで瓦を探そうとします。
このエピソードを、人を悼むことよりも学術的探究を優先させる人でなしを描いたものと捉えるのかどうか、難しいところです。「あんた、石や瓦のことしか言わないの?」「あの熱で、ひとも焼かれたのよ、わかってる?」と問い詰める女子に対して、和貴は「わかっています」と一言答え、そこで物語は閉じられます。和貴の「わかっています」をどう解釈するのか、ここでは読者自身がなにをどの程度「わかってる」のかも問われているように思われます。