『りぼんちゃん』(村上雅郁)

目利きの読者のあいだで話題沸騰の新人村上雅郁の第3作が、早くも刊行されました。背が低いためにクラスで赤ちゃん扱いされている朱理は、先生から転校生の理緒の世話を頼まれます。ふたりの仲が深まっていくうちに朱理は、理緒が「オオカミ」に悩まされていることを知り手助けをしたいと思うようになります。
周囲から半人前扱いされ状況から疎外される朱理の立場は、かなり精神を蝕まれるものです。他人と比較して自分が不幸でない理由を並べ立てても、その不幸が薄まるわけではありません。そんな朱理が自分の無力さに涙を流し、「おとなになりたい。だれかを守れる人になりたい」と訴える場面は、この作品のなかでも最高に美しい場面のひとつです。ここで朱理は、主体的に世界に関わり行動する覚悟を得ます。この気高さは、いままでの村上作品に共通する顕著な特長です。
ここで問題になってくるのは、朱理の戦い方に説得力があるのかということです。『りぼんちゃん』は前2作『あの子の秘密』『キャンドル』とは異なり、ファンタジー設定*1のない完全なリアリズムになっています。となると、現実で解決困難な問題を現実的な手段でいかに処理するのかという手腕が問われます。
そして、作品はみごとな解をみせてくれます。一度の失敗を糧にした朱理は、善意はあるけど臆病な普通の人間をいかに追いこんで囲いこむかということに知恵を働かせ、詰め将棋のように状況を動かしていきます。言い方は悪いですが、狡知と呼びたくなるくらいの手際のよさでした。
『あの子の秘密』『キャンドル』の読者は、ファンタジー設定の運用のうまさが村上雅郁の大きな武器のひとつであると認識していたはずです。しかし、それを捨ててもまったく作品の質が落ちない、むしろ上がっているかもしれないというのを見せつけられ、読者は度肝を抜かれました。村上雅郁への期待は高まるばかりです。

*1:ただし、村上作品におけるファンタジーはファンタジーなのかという問題はあります。『あの子の秘密』の裏設定である「思念的ウイルス」や「ミーム」というSF的な概念、『りぼんちゃん』のおばあちゃんの思想などを参照すると、少なくとも物語という魔法は村上作品ではファンタジーではなく現実のものであるとされているようです。

『月にトンジル』(佐藤まどか)

トールとダイキとシュンとマチの4人は、「テツヨン」という仲良しグループを作っていて、土曜の午後は必ずみんなで公園に集まって遊ぶ習慣になっていました。しかし、メンバーのひとりのダイキが引っ越してしまったことから仲間の絆は崩れ、土曜の習慣もいつしか自然消滅してしまいました。4人の関係の永続を無邪気に信じていたトールは、思わぬ展開に悩みます。
佐藤まどかは、小説のかたちで物事をシミュレーションすることを好む作家のようです。魔法の力によって階級社会が形成されるというファンタジー設定で天下国家の動きをシミュレーションした「マジックアウト」シリーズ、学校に人間と区別のつかないアンドロイドをまぎれこませるというSF設定で学級集団の動きを観察した『つくられた心』、現実世界を舞台にしているが子どもをリアリティーショーに出演させるという極悪な設定で洗脳プログラムの一部始終をなぞってみせた『世界とキレル』などが代表例です。この『月にトンジル』はそういった極端な設定はないリアリズム作品なので文学性や情緒を重視した作品のようにもみえますが、中心人物が消えることでどのように集団が崩壊するのかという冷静なシミュレーションが本質です。
祖父が遺言のように「月」と「トンジル」のたとえ話で人のままならなさを説いた導入部が出題と解答で、後は答え合わせが続くという整然とした構成になっています。人間関係はメンテしなければ持たず、メンテしていたとしても時間経過には耐えられないという身も蓋もない現実をつきつけてきます。幼少期からのなんとなくのつながりに絶望しつつあるトールが趣味のつながりに活路を求めるが、今度は周りのレベルが高すぎるためになじみにくくなってしまうという意地の悪い展開には、思わず乾いた笑いがもれてしまいます。
この冷たさと露悪性がこの作品の持ち味。佐藤まどか作品のなかではいまのところこれが一番好みです。

『オイモはときどきいなくなる』(田中哲弥)

ライトノベルやSFの分野でカルト的な人気を誇る田中哲弥が児童書出版の老舗福音館書店から突如『鈴狐騒動変化城』という上方落語テイストの傑作児童文学を発表してから7年、ようやく待望の児童文学第2作が出ました。
小学3年生のモモヨの春から次の春までのゆるやかな時間が描かれた作品です。臆病でびっくりすると白目をむくちょっとくさい愛犬のオイモや、うら山へ続く坂道の途中にある、床下に妖精の家族でも住んでいそうなお屋敷に住んでいるレオンさんというおしゃれなおばあさんとの交流が綴られています。
このようにあらすじを紹介すると、子どもと犬・子どもと老人の物語とは児童文学ではあまりにもベタ、まさかあの田中哲弥が守りに入ってしまったのかと心配してしまうファンもいることでしょう。しかし心配は無用です。この作品は間違いなく田中哲弥の作品で、しかも『鈴狐騒動変化城』と同等のレベルの超傑作です。
卓越したギャグセンスや怪奇幻想趣味など、田中哲弥は強力な武器をいくつも持っていますが、なかでも特筆すべき特長はあの独特の文体です。セリフと地の文がシームレスにつながり、登場人物の内言とナレーションとつっこみが渾然一体となったテンポのよい文章には、おそるべき中毒性があります。それをおバカな小学3年生女子の世界で使用するとこうもおもしろくなるとは。

「あのな」みどりちゃんはギコギコやっていたノコギリを止めると、おまえはばかかっていう顔をした。はっきりわかった。「まあおちつけ」
「それなにしてんの?」カーテンレールなんか切って。
「これはロボットのうでを動かすための」
「はっはっはっ。うっそだあ!」あっはっはっはっ。めちゃくちゃいうなあ。
「いやーやっぱりみどりちゃんはおもしろいや」ろ、ろ、ろぼっとの、う、うで。かーてんれー、かーてん、ろぼっと。ろぼ。ぼ。

この文体で、モモヨのおバカ行動が無数に記述されていきます。やるべきことがあってもなにか食べるとそれに気をとられて忘れてしまう、自分が階段を踏んだ瞬間にいい音がして雨がやんだので因果関係があるのかと思って何度も踏むのを繰り返す、寒い日は「ふつうになんか歩いてらんない」からゾンビみたいな歩き方をすると。田中文体の不思議なテンポによって臨場感が増幅され、おもしろさも増幅されます。
モモヨは幼年の世界から脱しきれておらず、すぐに夢幻の世界に引きこまれそうになる危うさも持っています。このあたりの幼年の描き方も、松谷みよ子の「モモちゃんとアカネちゃんの本」を思わせるくらいレベルが高いです。ただし、一足先に幼年を卒業した姉のみどりちゃん(中学校で「かがくぎじゅつぶ」に所属していて、アインシュタインやドップラーを愛しているおもしろ理系女子)が、常にモモヨを現世に引き戻してくれます。この安心感がよいです。
先述したとおり子どもと犬と老人の物語は児童文学の世界ではあまりにもベタなので、よほど突出したものがないと凡作にみえてしまうものです。しかし田中哲弥は高い技術力とセンスでねじ伏せ、問答無用の超傑作に仕上げてしまいました。これで田中哲弥の児童文学作家としての実力は十分に証明されたので、福音館書店は才能を見出してしまった責任をとってどんどん作品を書かせてください(web福音館の連載のこと、まさか忘れたわけではないですよね)。

『チョコレートのおみやげ』(岡田淳)

五年生のゆきちゃんは、母の妹のみこおばさんと異人館・港というデートコースで遊んでいました。公園のベンチに座ってチョコレートを食べていると、みこおばさんは「時間がとけていくみたい」と謎めいたことを言って、その日に見た異人館や風見鶏や風船売りなどが登場するお話を即興でつくって語りはじめました。
みこおばさんが語った物語は、風船売りの男と相棒のニワトリの物語でした。風船売りはニワトリの天気予報を頼りに毎日販売戦略を考えていました。ある日ニワトリは、ちょっとしたいたずらごころで嘘の天気を予報をしてしまいました。それが思わぬ悲劇を招きます。
みこおばさんの語るお話を痛ましく思ったゆきちゃんは、お話の続きを考えて軌道修正を図ります。すばらしいのは、ふたりのあいだで暗黙の合意形成がきちんとなされていることです。話のリアリティのラインは心得ていて、そのルールのなかでゆきちゃんはハッピーエンドを目指します。すでに語られた物語を修正するのではなく続きをこしらえるという方法も、フェアな感じがします。この理が通っているところはいかにも岡田淳らしいです。
そして最高なのは、最後の数文です。

みこおばさんは、とつぜんわたしの頭をなでた。
五年生のわたしの頭を。一年生の子にするみたいに。

これで物語の奥行きがぐっと広がります。おそらくここで、ゆきちゃんはみこおばさんの心をチョコレートのようにとかしたのでしょう。みこおばさんのここでの心情を作中の情報だけで推し量ることは困難です。もしかしたらこの話はみこおばさんの実体験に基づくものなのかもしれませんし、そうではないかもしれません。真実はわかりませんが、読者に無数の想像をさせるこの短い文章の威力は尋常ではないということは確かです。
ところで、ニワトリを風見鶏にする技法はなんとしても谷山浩子のニワトリに教えてあげたいですね。

『ボーダレス・ケアラー 生きてても、生きてなくてもお世話します』(山本悦子)

「鬼ヶ島通信」連載作に加筆を加えた作品です。大学生の海斗は親の命令で、祖母の世話をすることになります。愛犬の豆蔵が死んで以来誰もつながっていないリードを持って散歩をするようになったことなど不安要素もありましたが、割といいバイト料も出ていたのでお気楽に考えていました。ところがリードを持ってみると、いないはずの豆蔵の姿が見えました。さらに、周囲に幽霊のような存在が見えるようになってしまいます。セーラー服を着た地縛霊のような女子セーラによると、それらは生者と死者のボーダーラインに立っている「ボーダー」なのだそうです。交通事故死した高校時代の同級生や「イデン」とか「トイデン」といった謎の言葉をつぶやく黄色いキャップをかぶったおじさんなどのボーダーを目撃した海斗は、彼らの未練を晴らしたり晴らさなかったりする活動を始めます。
神隠しの教室』や『今、空に翼広げて』といった重量級の作品が目立つ山本悦子が「なんとかケアラー」という話題の時事用語っぽいタイトルを出してくるので、どんな剛速球が来るかと身構えてしまいます。ところが意外なことに、この作品はちょうどよい軽みを持っていました。
まず、犬のリードを持つことによって非日常につながるという設定が魅力的です。主人公が童話的な世界とはもう離れてしまったように思える大学生であるというミスマッチもよい方向に働いています。連載作だけあってエピソードごとに話が完結しているので読みやすく、ボーダーたちの未練を探るという軽いミステリ要素もあるので娯楽読み物としてさくさく読み進んでいけます。
この作品には深刻さを軽減するための様々な工夫が施されています。ボーダーは怨霊のようになって人に害をなすわけではないので、ほうっておいても別にかまいません。成仏しようが現世にとどまろうが、ボーダーにとっての幸せはそれぞれであるとされています。海斗とセーラに年齢差があることも、恋愛感情を抱いて動機が増し事態が深刻化することを予防する役割を果たしています。海斗がボーダーのために行動する必然性はなく、善行をなすかどうかはすべて海斗の意志に委ねられています。
それゆえ、しなくていいことをする主人公の善性が輝いてきます。頭はあまりよくなさそうだけど底抜けにお人好しな主人公のキャラクターが、この作品のよさの主柱になっています。

『おれは女の子だ』(本田久作)

ピンク色が好きなために「女の子みたいだ」とからかわれたすばるは、「おれは女の子だよ」と宣言、そのことを家で話すと姉たちからピンク色のシャツを着たりスカートをはいたりして学校に行くように強要されます。
男子が女子の姿になることで女子への理解を深めるという手法は児童文学の世界では伝統的で、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』はもはや古典、21世紀に入ってからの作品だと風野潮の『ぼくはアイドル?』が評判になっています。そんな伝統的な手法が使われた最新の作品がどうなるのか期待がふくらむところですが、残念ながらこの時代にこのデリケートなテーマを扱う作品としてはあまりにも思慮の浅いものになっていました。
この手の作品は、自分と異なる立場に立つことで差別の構造に気づかせなければ教育的意義はありません。ところが、すばるは女子の美点ばかりに目がいってしまいます。

女の子はひとりでもやさしいけど、女の子たちになるとすごくやさしくなる。

これでは、女子は清くあるべきであるという保守的なジェンダー規範を強化することになってしまいます。
作者ではなく主人公のすばるが書いたという設定になっているあとがきにも、ジェンダー規範を強化し性差による分断を煽ることばかりが述べられています。口先では「決めつけ」を否定しながら。「男の子は女の子よりもバカだ」「こんなバカみたいなことをする女の子は世界のどこにもいない」「スカートめくりをするのも男の子だけ」と決めつけています。
女子にもバカみたいなことをする権利はありますし、実際にバカみたいなことしている女子はいくらでもいます。「スカートめくりをする」、つまり性暴力の加害者になるのは男性の方が多いというのは事実です。しかし、スカートめくりをする、あるいは男の子のズボンを下ろして喜ぶ女の子は存在します。「少ない」と「いない」のあいだには大きな違いがあります。言葉の使い方が雑すぎます。スカートめくりをする女子の存在を消すと、スカートめくりをする女子の被害者が透明化されてしまいます。こういう問題の重大さに気づけないようであれば、デリケートなテーマを扱うのはやめた方がいいでしょう。

『ドリーム77』(金重剛二)

1969年理論社刊。導入部のイラストがよいです。大きな木の根元にトンネル状の穴が空いていてそこを機関車が通ってるという、別世界の入り口としてとても魅力的なものになっています。光一くんはおかあさんと博物館から抜け出してきたようなこの古い機関車に乗っていましたが、光一くんと目の前に座っていたおじいさんを除いたすべての乗客は眠りこけてしまいます。おじいさんは光一くんを外に連れ出し、糸を上空に放り投げてそれをつたって雲の世界に上るように促します。古い機関車からインド大魔術めいた不思議現象、子どもを別世界にいざなう手つきが非常に手慣れた感じがします。
さて、雲の上の世界で光一くんは、羽の生えた服を着て夜の世界を飛び回り人々に夢を配る役割を与えられます。空を飛ぶときの気持ちは、「あたたかい春の日に、チョウになって菜の花から菜の花へ、ゆっくりととびまわるような」と表現されています。素朴な表現ですが、子どもの生活実感にあっていて、童話の表現としては最適です。
ところが、光一くんがはじめに配ったゆめはひどく血みどろでした。妻とふたりの子どもを恐竜に食べられてしまった父親が苦労の末に恐竜を倒したものの、家族を救出するために恐竜の体をのこぎりで切ったら家族も一緒にまっぷたつという。これは、この家族は翌日交通事故に遭う運命だったので、警告のために夢で予言したのだといいます。やがて、どうも雲の上の住人は光一くん以外死者ばかりなのではということも明らかになってきます。雲の上の夢幻の世界はあまりにも陰惨でした。
タイトルのドリーム77とは、雲の上のおじいさんとそっくりな大学の先生が開発した、ゆめをつくる薬の名前です。ゆめを神聖なものと考える光一くんはこの薬の販売に反対します。このあたりの理屈はよくわからないのですが、とえりあえず作中倫理ではこの薬は悪ということになっています。しかし先生は私利私欲のために薬を売ろうとしているのではありません。大学の研究費が少ないため先生のライフワークである精神障害者を救う仕事ができなくなるので、資金調達のためにしているのです。ここで作品は、国が大学に金を出し惜しみする問題と戦うという社会派の様相も呈してきます。光一くんは大臣に請願に行きますが、こいつらじゃ話にならんと早々に見切りをつけ、草の根的な反対運動に切り替えます。このあたりは時代の空気なのでしょうか。しかし、この時代より現代の方が大学が窮乏させられていることを考えると、絶望的な気分になります。
ということで、猟奇的な幻想と社会派が両立した奇妙な作品になっています。幻想と社会派の熱が調和し、感傷的なラストがよい読後感を残してくれます。