『ドエクル探検隊』(草山万兎)

ドエクル探検隊 (福音館創作童話シリーズ)

ドエクル探検隊 (福音館創作童話シリーズ)

700ページを超える厚さ。書いたのは草山万兎、すなわち霊長類研究の世界的権威である河合雅雄で、挿絵は松本大洋。著者のネームバリューと本の重量感だけでも期待がふくらみます。そしてその作中には、期待をはるかに超える凄絶な黙示録的世界が広がっていました。
時は昭和十年、尋常小学校を卒業したばかりの少年少女竜二とさゆりは、米穀商の丁稚・織物工場の女工と、ひそかに学問の道に憧れていたふたりには不本意な道に進もうとしていました。そんなところを風来坊の博物学者タイシ博士に招かれ、その弟子となります。物言う動物たちと暮らし学究の道にいそしんでいたふたりですが、やがて思いがけないなりゆきから、ナスカ王国の妖術師が跋扈している南米ペルーまで幻の古生物ドエディクルスを探す旅に出ることになります。
この作品の魅力は、ファンタジーと科学が融合して絶妙に楽しい世界を作り上げているところにあります。旅の仲間となる動物は、八咫烏聖徳太子の愛馬の5代目だという霊力を持った黒駒といった神話の世界の住人であったり、またカワウソやイタチといった民話・昔話の世界の住人であったり、さらには外国人助っ人(?)としてボノボが登場したりと、その出自はまちまちです。旅の仲間をはじめとして登場する多彩な動物たちは、虚実入り交じったその特性を生かして大活躍します。たとえば、渡り鳥に手紙を運んでもらうとかクジラに船を曳いてもらうとかいうファンタジーにも、直通では行けないからここを経由してここでバトンタッチするとかいう理屈を入れてくるので、奇妙な説得力が生まれてきます。そんな空気のなかだと、超音波による通信のような現実的なことも、実に不可思議な魔法のようにみえてきて、輝きを増していきます。
また、イタチvs体長30メートルのアナコンダや、サーベルタイガーvs大ナマズといった、動物バトルもこの作品の見所です。斯界の権威が専門用語を交えた緻密な解説を入れてくるので、その臨場感・迫力はたいへんなものです。
妖術師や危険生物と戦い伝説の神獣に対面するまでで500ページほど。これだけでも一級品の冒険小説として年間ベスト級に入るのですが、その後神獣が終末神話を語り出すと、作品はさらなる高みに達します。
太古の高原に、3匹の獰猛なサーベルタイガーが現れ、草食動物たちの平穏が乱されます。さらに大飢饉が起こり、通常の生存競争の域を超えた動物たちの壮絶な殺し合いが起こります。それはある種のゾンビ蔓延による終末のようで、この上ない絶望感を味わわせてくれます。
厚みのある児童文学は得てして、読んだ子どもの心に爪痕を残してくれるものです。この本を読んだ子どもは、決して忘れられない読書体験を得ることになるでしょう。

その他今月読んだ児童書

令丈ヒロ子原作の作品を吉田玲子脚本でアニメ映画化して、それをさらに原作者本人がノベライズする。これがいかにヤバいことなのかということは、わかる人にはわかるはずです。本編とは異なりおっこの一人称語りにすることで、孤児小説としての悲劇性が高められています。
鳥達のバラード アンプラグド

鳥達のバラード アンプラグド

記憶は時間とともに塗り替えられるから、その時、わたしが何を感じたのかは正確にはわからない。
(p173)

語り手は、このようなことを自覚してしまっている人物です。過去を振り返る語りだからなのか、語り手の人格的な特性なのか、離人感のある文章に味わいがあります。

シロガラス5 青い目のふたご

シロガラス5 青い目のふたご

おもしろくなりそうな予感をどんどん上げていくのに話があんまり進まないのがこのシリーズのたちの悪いところ。刊行ペース上げてください。
波うちぎわのシアン

波うちぎわのシアン

語りの仕掛けは凝っていますが、胎内記憶という危ない橋を渡ってしまっている時点で救いようがありません。ある登場人物は、子どもの胎内記憶についてこう語ります。

子どもは、世界を見聞きし、おぼえている。おとなとおなじ。ひとりのにんげんだって、おもえるでしょう。
(p101-102)

同質性でしか人間の尊厳を捉えられないのであれば、それはあまりにも貧しい人間観です。

『少年少女奇想ミステリ王国1 西條八十集 人食いバラ 他三篇』(芦辺拓/編 大橋崇行/校訂)

1月に『あらしの白ばと 黒ずきんの巻』、6月に『怪魔山脈』、そして8月にこの『少年少女奇想ミステリ王国1 西條八十集』と、2018年は西條八十ジュヴナイルファンにとって嬉しい悲鳴の止まらない年となりました。
この本には、西條八十のぶっとんだ少女小説が4作も収録されています。
表題作『人食いバラ』は、以前ゆまに書房で刊行されたバージョンで読んでいる方も多いのではないでしょうか。貧しくも心清らかなみなし児英子は、大富豪の莫大な遺産を譲り受けるという僥倖を得ます。ところが、本来相続権を持っていた春美という少女が、一銭も遺産をもらえなくなってしまいます。この春美という少女は、むやみに生き物を殺めたくなるという悪い癖さえなければ完璧なお嬢様でした。かわいそうに英子は、春美に命を狙われることになります。
この作品のおもしろさは、なんといってもあの手この手で殺人を遂行しようとする春美のアグレッシブさにあります。主に生体兵器(婉曲表現)を駆使して自ら体を張って英子を殺そうとする春美の、なんと生き生きしていることか。悪の魅力に酔いしれてしまいます。
『青衣の怪人』は、不幸な少女千春が怪しい屋敷に雇われて、いろいろひどい目に遭わされる話です。味方はかしこい探偵少女の友子と、謎の青衣の怪人だけ。しかし、少女を守る怪人を不気味なカエル男にしているのは、時代なのか西條八十の趣味なのか……。
『すみれの怪人』の〈すみれのジョオ〉は、さわやか美青年の怪人です。主人公は少女ながら身の上相談の事務所を構えている町子。刑事部長のおじを助けて『黒い五本指』という大悪党たちと戦う探偵少女としての顔も持っています。〈すみれのジョオ〉はもとは『黒い五本指』の一員に数えられた悪党でしたが、いまでは町子を助ける正義の怪人となっていました。
町子は頭脳明晰な探偵ですが、悪党を前にすると警告もなしに拳銃をぶっ放すというバーサーカーぶりも発揮します。実に西條ヒロインらしい爽快な活躍をみせてくれます。
このおそるべきはじけた作品群のなかでも、突出したおもしろさを持つのが、『魔境の二少女』でした。大富豪の父高木徳三が結成したアマゾン探検隊の一員として、娘の小百合も危険な旅行に乗り出します。途中で出会ったフランス人少女ニコレットも仲間に加わり、波瀾万丈の冒険旅行が繰り広げられます。
ニコレットは百発百中の名スナイパーで、戦闘要員として頼もしい仲間となります。また、「娘大将」という大まさかりを操る大男のインディアン黒獅子も、大活躍します。しかし、旅の仲間でもっとも注目すべきなのは、コックの有田です。有田は臆病者で、シリアスな戦闘の場面でもギャグ要員として楽しませてくれます。それだけでなく、思わぬところで意表をつくアイテムとアイディアを出して探検隊を救ってくれます。難敵の化ゴリラを倒したあと、死体を剥製にしようとかわけのわからないことを言い出し、それがまさかのあんなファインプレーにつながるとは……。
秘境の風景が臨場感たっぷりに描かれているので、観光小説としても楽しめます。地底の川下りをしていると、おそいくる巨大な火柱、その炎が金ののべ棒か大きなハスの花のようなかたちになって落ちてくるという地獄風景。最近われわれは西條八十のことをすっかりヘンテコ少女小説作家だと思いこんでいましたが、そういえば彼は詩人でもありました。美しい情景描写はお手のものなはずです。
とにかく、どの作品もただただおもしろい。芦辺拓の精力的な復刊活動や実作*1起爆剤として、物語のおもしろさを追求した少年少女小説復権運動が広がることを願ってやみません。

*1:『スクールガール・エクスプレス38』『降矢木すぴかと魔の洋館事件』等

『泥』(ルイス・サッカー)

泥 (児童単行本)

泥 (児童単行本)

そういえば今年は平井和正の年になっていて、傑作短編集もウルフガイもゾンビーハンターも新刊書店で購入することができます。平井和正といえば「人類ダメ小説」。人類の醜さ救いようのなさにいったん絶望させることは、健全なジュヴナイルSFのひとつの方向性です。
世界的ベストセラーとなった『穴』の著者ルイス・サッカーの邦訳新刊『泥』も、平井作品とはテイストが異なるものの「人類ダメ小説」的な要素を持っています。
ペンシルバニア州ヒースクリフにある名門私立校に通うタマヤとマーシャルは、毎日一緒に通学する仲でした。マーシャルはクラスのならず者チャドに目をつけられていて、みんなからひどい迫害を受けていました。チャドから逃れるためいつもの通学路から離れ山に登ったタマヤとマーシャルは、チャドに追い詰められます。タマヤは暴力を受けるマーシャルを助けるため、ねばねばする不気味な「泥」をチャドに投げつけます。ところがその「泥」が、実は非常に効率はいいが人体に害のある新しいバイオ燃料で、騒動は街全体を巻き込んだパニックに発展していきます。
読者の期待を誘導してその期待に応えるストーリーテリングの巧みさは、さすがルイス・サッカーです。ストーリーの幕間に政府の聴聞会の場面を挟んで設定を開示していくので、読者は作中人物より早く状況を理解することができます。となると、タマヤとマーシャルが山で追い詰められる場面で読者が期待することはひとつになるわけで、まんまと作者の術中にはめられてしまいます。
では、人類のダメさはどこに描かれているのかというと、まずは環境問題です。人類が便利さと危険性を天秤にかけてどのような判断をするかというと、そうなりますね。人口爆発と人類の欲望増大を問題とし過去を美化するようなセンチメンタルな問題設定を著者がしているので、議論が古びたものに感じられ説得力が乏しくなってしまっているのは欠点ですが、いわんとしていることはわかります。
実は環境問題よりも人類のダメさをついているのは、学校をめぐる描写です。舞台となる学校は裕福で成績優秀な子が通う学校でしたが、チャドはみっつの学校から退学を申し渡された素行不良な生徒で、ソーシャルワーカーの「良好な環境を与えるべき」という考えによりタマヤたちの学校に転校してくることになります。ソーシャルワーカーの方針は、理念としてはまったく正しいです。しかし、そのご立派な理念を実現するための方策が何もなかったために、学校の治安は乱れマーシャルという被害者を生み出すことになりました。この、理想と現実の乖離が悲劇を生むという構造が残酷です。
この作品でもっとも笑える(笑えない)場面は、チャドがいなくなったと知ったマーシャルのクラスメイトたちが次々とチャドの悪事を告発し出すところです。自分たちもマーシャルを迫害することを楽しんでいたはずなのに。
こういう露悪的なのも、児童文学には必要です。

『ヤイレスーホ』(菅野雪虫)

ヤイレスーホ

ヤイレスーホ

物語の受容の仕方は自由です。たとえば『アナと雪の女王』をみて「あんな最強の氷魔法手に入れたら、自分なら氷の城つくる前に気にくわないやつ全員ぶっ殺すのに」とか、公式が推奨しないであろう感想を抱いた観客も少なからずいるはずです。
アイヌ神話をモチーフにした『チボロ』の姉妹編。『チポロ』は、ストーリーだけ取り出せば悪い魔物ヤイレスーホに監禁された少女イレシュを少年チボロが救いに行くという、王道の英雄物語でした。
ヤイレスーホはイレシュを他の魔物から守るために、触ったものを凍らせる魔法を与えました。イレシュはそれを呪いだと思っていましたが、その物語を聞いたランペシカという少女は別の感想を持ちます。自分の復讐のためにその力は利用できるのではないかと。ランペシカは自分の持っている他人の願い事を叶えることのできるマジックアイテムと引き替えにヤイレスーホの力をもらおうと、ヤイレスーホを捜索します。これが、『ヤイレスーホ』の物語の発端となります。
英雄の物語では語りきれないものがあります。少女を救いに旅立てなかった少年の感情。少女を監禁していた魔物が少女に抱いていたなんとも言い難い感情。ヤイレスーホの呪いをむしろ恩寵だと受け取る人間の感情。
『チポロ』という英雄譚からは取りこぼされてしまった感情が丁寧にすくい取られているので、『ヤイレスーホ』はあたたかみのある救済の物語となっています。そして、異種間の恋愛ものとしても、美しい物語になっています。ヤイレスーホが最後に選んだ願いは泣かせます。

その他今月読んだ児童書

ここにいるこの体の自分をわかるとしたら自分しかいないのに、その自分のことは自分じゃぜんぜんわからないんだから。わからないまま、だらだら生きてるんだよ。考えてみたら怖いじゃん。(p99)

離別していた母親の死により、母親に引き取られていた弟と再び同居することになった女子の物語。父親にも遠慮してしまう弟のよるべなさ、特に希望していなかった私立中学にあえて入ることによりここは自分の居場所ではないと表明する生存戦略、夜の月の光を優しいと感じる感性。この世界に身の置き所のない子どもを描かせたら、やはり岩瀬成子の右に出るものはなかなかいません。

スマイル・ムーンの夜に (teens’ best selections)

スマイル・ムーンの夜に (teens’ best selections)

人は結局ひとりで生きていくしかないのだということを突きつけるのが、宮下恵茉の優しさなのだと思います。
大坂オナラ草紙

大坂オナラ草紙

第58回講談社児童文学新人賞入選作。江戸時代にタイムスリップしオナラをすると現代に戻れるという設定とは裏腹に、非常に生真面目につくられていた作品でした。
痛快! 天才キッズ・ミッチー (カラフルノベル)

痛快! 天才キッズ・ミッチー (カラフルノベル)

それなりに長く続いている古書店の3代目で出版プロデューサーを目指している女子ミッチーが、古書店の常連の文学おじさんの作家デビューを手助けしようと奮闘する話。かしこい子どもがボンクラな大人を手玉にとって活躍する様子を楽しく描く手腕は、ずっと変わらない宗田理の職人技です。ミッチーは読書アドバイザーとして新刊書店に常駐して盛り上げたり、古書店にカフェを併設しようとたくらんだり、従来の本の流通の常識を覆す策を考えたりと、さまざまなアイディアを繰り出します。
宗田理はこれから出版業界がどう激変しようと余裕で逃げ切れるだけの実績を持っている人です。にもかかわらず、出版業界の未来をこのように真剣に考えている姿勢には頭が下がります。

『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(こまつあやこ)

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

第58回講談社児童文学新人賞受賞作品。マレーシアからの帰国子女の沙弥は、悪目立ちしないように息を潜めて生きていました。ところが変わり者で有名な佐藤先輩に拉致され、「ギンコウ」とかいうのに連れ回されて、平穏な中学校生活を乱されてしまいます。
吟行の意味がわからず銀行強盗の片棒担がされるものと勘違いした沙弥は、おびえまくります。緊張のあまり口調も変になり、「短歌って、ゴーゴーゴーシチシチのあれでございますね?」などと、おかしなことばかり口走ります。この主人公の適度なアホさにより、親しみやすい感じで物語はスタートします。
ということで、短歌ものです。先輩の短歌は「だまされるほどガキじゃない 甘口のカレーライスに溶かしたウソに」「当番をサボったって正義です シナモンロールみたいな女子は」と、いかにも現代短歌といった感じのなじみやすいもので、短歌入門としてはまあまあです。
そして、沙弥はマレーシア語との融合短歌を開発します。「ジャランジャラン 願いを込めてもう一度いっしょに歩いてみたい道です(「ジャランジャラン」は散歩の意)」といったようなもの。ちょっとずるいような気もしますが、文学の世界に反則というものはないので、これはこれでありです。リズム感のよさと多くの読者にはわからないマレーシア語の意味の融合により、独特の世界がつくられています。多様性を称えるお説教としても、説得力のある手法となっています。
ここがこうつながるのかという驚きもある作品なので、あらすじについては多くは語りません。察しのいい方は、女子ふたり男子ひとりのカバーイラストをみて、なにかを感じ取っていただければと思います。
はぐれ者の生きる道を軽やかに描いていて、なかなか好感の持てる作品でした。