『さらわれたオレオマーガリン王子』(マーク・トウェインとフィリップ・ステッド/作 エリン・ステッド/画)

さらわれたオレオマーガリン王子 (世界傑作童話シリーズ)

さらわれたオレオマーガリン王子 (世界傑作童話シリーズ)

マーク・トウェインの遺した草稿を元に、コルデコット賞作家のフィリップ・ステッドとエリン・ステッドが新たに紡いだ物語です。マーク・トウェインとフィリップ・ステッドが対話しながら、貧しい少年ジョニーが思わぬ運命により行方不明の王子の救出に向かうストーリーを語っていきます。
ふたりの語り手という趣向は複雑で童話としては難解なのではないかと思われる向きもあるかもしれません。しかし、子どもの理解力は大人が思っているよりも高いものなので、問題はありません。たとえば、ロシアの巨匠サムイル・マルシャークによる幼年童話『ちいさいおしろ』は、物語をハッピーエンドに導きたい語り手とバッドエンドに導きたい語り手がけんかしながら共同で物語を生成するというものでした。これは語り手のせめぎ合いと物語自体のおもしろさの相互作用で、最高に楽しいエンタメになっていました。
『さらわれたオレオマーガリン王子』も、ふたりの語り手の思惑の違いがみどころになっています。マーク・トウェインは皮肉屋で厭世的。ジョニーの不幸な生い立ちや王国のばからしくもディストピアみにあふれる設定、ジョニーのニワトリの名前を「ペストトキガ(ペストと飢餓)」とするところなど、性格の厄介さが随所にあらわれています*1。フィリップ・ステッドはそんなトウェインを冷ややかなまなざしでながめながらも、彼の意見に耳を傾けたり軌道修正を図ろうとしたりします。
いやトウェインはもうとっくに死んでるんだから、結局全部フィリップ・ステッドの一人芝居じゃないかと、そういってしまうとおしまいです。ただ、元になった原稿はあるので、ふたりの対話は成立しています。その場にいない人とも対話できるというのが、文学のすごいところなのです。
この対話の参加者は、マーク・トウェインとフィリップ・ステッドだけではありません。カバー全体に君臨する巨大なドラゴンをはじめとして、作品のイメージを広げるイラストをものしているエリン・ステッドも、対話の参加者です。
そして、なにより忘れてはならないのは、読者も対話の参加者だということです。

*1:実際のところトウェインの草稿がどの程度反映されているのかは、読者には判断できませんが、ここでのトウェインはあくまで作中の「トウェイン」ということです。

『カッコーの歌』(フランシス・ハーディング)

カッコーの歌

カッコーの歌

2017年に刊行された初邦訳作品『嘘の木』で、ミステリ界隈を中心に日本の目の肥えた読者たちに大歓迎されたフランシス・ハーディング。とうとう待望の邦訳第2作が出ました*1。今度は百合ファンタジーです。こちらも『嘘の木』に比肩する大傑作でした。
地方の名士の娘トリスの身に不可解な異変が起こるところから、物語は始まります。池に落ちて生還したトリスには、「あと七日」というなにかをカウントダウンするような幻聴が聞こえるようになりました。異常な食欲がわいたりと身体にも変調が訪れます。妹のペンはトリスを激しく拒絶し、なにか秘密を知っているということをほのめかします。
『嘘の木』と同じく謎の多い作品なので、ネタを割らないように気をつけながら内容を紹介しなければならないのがもどかしいです。序盤はトリスの謎をめぐって、重苦しくミステリアスに物語は進んでいきます。そして、トリスの謎が明らかになり周囲の人々がいままでとは異なる顔を見せるようになると、物語は一気に加速していきます。
当たり屋なんか日常茶飯事、『嘘の木』主人公フェイスも顔負けの天性の嘘つき娘。姉妹愛のためならどんな危険もいとわない、颯爽とバイクを駆る雪の魔女。自分の信念のために容赦なく邪魔者を断つ、怪人ハサミ男。こういったイカれた面々が暴れ回り、さらに橋の下の異世界「下腹界」の異形たちも入り乱れて、超絶おもしろい冒険活劇になります。
舞台は第一次大戦が終わったばかりのイギリスです。トリスとペンの兄のセバスチャンが戦死したため、家族の時間は凍結していました。なぜか亡くなったはずの兄から手紙が届いており、手紙の中の兄は雪のなかで終わらない戦争を続けていました。白黒の映画のスクリーンのなかの過去に固定された灰色の人々にペンが襲われる場面も印象に残ります。作品世界内の時間は停滞しています。
しかし、時代は進んでいきます。この戦争は、ジェンダーの変革をもたらしたという面も持っていました。元々は女性用アクセサリーであった腕時計が、その利便性から戦場の男性にも使われるようになったということ。戦時に工場などでの労働を経験した女性が、自立して生きる手段を獲得したということ。時間の停滞と進展、静と動の対立が作品の大きなテーマになっているようです。とはいえ、こんな小理屈をこねる必要はありません。読者は物語のダイナミックなうねりに身を任せていればいいのです。

「だがハサミは、たったひとつの仕事しかしない。物をふたつに切りわけることだ。力で分ける。すべてをこちら側とあちら側にして、あいだにはなにも残さない。確実に。われわれはあいだの民だ、だからハサミがきらう。ハサミはわれわれを切り裂いて、理解したがっているが、理解するということはわれらを殺すも同じなんだ。」(p243)

邦訳第1作『嘘の木』は、ダーウィン以前の迷妄を打ち払い世界を理性の光で照らす、ミステリ要素の強い作品になっていました。一方『カッコーの歌』は、理性の光だけでなく物語の闇にも注目しています。

「昔の人なら物語を語ったでしょうね」男の連れがいう。「火のそばで、暗闇を寄せつけないように。でも、闇は常に物語に入りこんでくる。少なくとも、聞く価値のある物語には。真の嘘には」(p388-389)

*1:実際の刊行順は『カッコーの歌』が第6作、『嘘の木』が第7作。

『ぼくは本を読んでいる。』(ひこ・田中)

ぼくは本を読んでいる。

ぼくは本を読んでいる。

ひこ・田中作品の主人公は、頭がよくて思索を好む子どもばかりです。それが本を読むのだから、それはつまり最強ということです。
小学5年生になったばかりのルカは、両親の「本部屋」でカバーの掛かった本をみつけます。父か母が読んでいたはずのカバーの掛かった『小公女』と『あしながおじさん』を読みつつ、両親や幼なじみや読書好きの転校生と語らう、そんな1週間の物語。
ルカが本を読みながら物思いに耽るパートはフォントが変えられていて『はてしない物語』のようです。ひこ・田中らしいたくらみがそこかしこに感じられます。
大人と子どものはざまにいると自覚しているルカを祝福するのは、ゴキブリです。ルカは築14年のマンションの14階に住んでいます。マンションの警備員の話によると、新築マンションでは1年に1階ずつゴキブリが上っていくらしく、その予言通りになりました。上昇し到達した不気味なものは、ルカの成長に伴い生まれたものでもあるのでしょう。ただしこの時点のルカは、ゴキブリは大人が処理すべきものだと考えています。
ルカの友人も自分の成長に戸惑っています。いままで親が居ないと眠れなかったのに自分の部屋を欲するようになった友人に、ルカは「それはわかるよ。うまく言えないけど、たぶん、わかるよ」とコメントします。このような言語化できない共感も重要です。
本を読むことによってルカは、時間感覚を意識していくようになります。「本部屋」にあった『小公女』の発行年は1986年、両親は70年代後半生まれ、『小公女』が世に出たのは100年以上前、「ゲド戦記」1巻の刊行は50年ほど前。本と語らい、両親と語らうことで、現実とフィクションの二重の視点からルカは時代を知っていきます。現代と両親の子ども時代はテクノロジーも文化もまったく異なります。『小公女』の時代ならなおさらです。両親もセーラ・クルーも、現代の子どもにとっては異世界人のようなものです。時代の変化を明確にすることによって、異世界人が邂逅できるという奇跡がこの世界で当たり前のように起きているということに気づかされます。
ぼくが本を読んでいるのは、フォントが変えられている本を前にしている場面だけではありません。この本のタイトルは『ぼくは本を読んでいる。』なのですから、作中のすべての場面でルカは継続して本を読んでいるのです。ルカの思索は、常に『小公女』や『あしながおじさん』に結びつけられます。本を読み、それについて考えていると、生活のすべての場面が本の世界につながってしまうのです。この作品は本を読むという生き方の厄介さを暴き立ててしまったともいえそうです。

『風がはこんだ物語』(ジル・ルイス/作 ジョー・ウィーヴァー/絵)

風がはこんだ物語

風がはこんだ物語

おぼえていて。

名前を忘れないで。

この作品は前情報を入れず「そういう趣向なのか!」と驚きながら読むのがいいので、未読の方には訳者あとがきも読まずはじめから読むことをおすすめします。一言だけ、これは2018年の翻訳児童文学のなかではベスト級のものであり、物語を愛するすべての人に捧げられた作品であるということだけ、申し添えておきます。以下は、未読の方は読まないようにお願いします。












「一人の少年が、宙をゆっくりとめぐっている。」という謎めいた書き出しが、まず読者の興味を引きます。作中で明言はされていませんが、舞台は小さなボートのなか、過酷な環境にある難民のような人々が乗り合わせているようです。そのなかで一人の少年が、バイオリンを手に物語を語り始めます。それは意外にも、多くの日本人になじみ深い物語でした。
物語の受容の仕方は、現在では文字を黙読するというやり方が主流です。それ以前は、語り部が人々の前で口承により語り伝えるものでした。この作品での物語は、昔ながらのやり方で語られます。
そこでは、聞き手が物語に口を出し自分が別の物語を語りだしたりといった、黙読ではあり得ない出来事が起こります。原初的なスタイルでの物語の語り合いは、いまにも全員が命を失いそうな状況のなかで、奇跡のような輝きをみせます。
物語は風のように自由を志向するということ。物語は力を持つのだということ。この作品は、なぜ人は物語を必要とするのかという難問に読者を向き合わせようとしています。

『四つ子ぐらし 2  三つ子探偵、一花ちゃんを追う!』(ひのひまり)

四つ子ぐらし(2) 三つ子探偵、一花ちゃんを追う! (角川つばさ文庫)

四つ子ぐらし(2) 三つ子探偵、一花ちゃんを追う! (角川つばさ文庫)

第6回角川つばさ文庫小説賞特別賞受賞作のシリーズ第2巻。2巻にして第5巻までの発売日とおまけが予告されていることから察するに、1巻の時点でかなりの人気を獲得しているようです。
国の福祉省による「要養護未成年自立生活練習計画」で、生き別れの四つ子が子どもだけで生活するようになったという設定の話です。全員仲良くなって楽しい新生活が軌道に乗ってきたところですが、優しい長女の一花の様子がおかしくなります。妹3人はこっそり尾行して姉の秘密を探ろうとします。
同じ顔の3人が変装して探偵ごっこというシチュエーションが楽しいです。語り手三女の三風はいつもと違う姉妹の様子をみて「なんだかドキドキするよ」と、のんきな感想を述べます。冷静に考えると、自分と同じ顔の人間3人にストーキングされるというのはかなり怖い状況なんですけどね。なりすましとかし放題だし。
長女の抱えていた問題はシビアなものでした。自分はちゃんと大人になって働けるのだろうかという不安。子ども時代にこのような不安を持ったことがない人は、恵まれた立場の人です。子どもに与えられる環境は平等ではありません。家庭環境・身体的精神的な健康状態・人間関係資本など、さまざまな条件によって人生の攻略難易度は変わります。ですから、人はドロップアウトしても仕方ないのです。ドロップアウトした人は社会が支えればいいのですから。ただし、この国では政治も世間も弱者に厳しいので、結局社会の矛盾は弱者が孤独に抱えこまなければならないことになります。このシリーズ、かわいらしい見かけとは裏腹に実はものすごくエグい社会派児童文学なんですね。
語られる内容は深刻です。でもこのシリーズは、シリアスムードを吹き飛ばす空気の操作がうまいので、読み心地はとてもよくなっています。1巻のラストを思い出してください。もっともメンタルが弱そうにみえた四女四月が急に饒舌に語りはじめて、この子はオタク気質のギャグキャラだったということが判明しました。これで暗い空気が完全に払拭されて、さわやかな読後感を残しました。2巻でもその長所は生きています。現時点で表に出て姉妹に立ちはだかっている自称母の三下悪役ぶりが板についてきたので、これが登場するとやっていることは悪辣な割に雰囲気はギャグっぽくなってきます。そして、われらが四女さんが口を開くと一気に勝利モードに入るというこの流れ。2巻も穏やかな気分で読み終えることができるようになっています。
四つ子をめぐる闇は次第に明らかになってきました。このままの空気でシリーズを進めてもいいし、思いっきり鬱展開にしてもよさそうです。シリーズの今後がますます楽しみになりました。

『恐怖のむかし遊び キレイになりたい』(にかいどう青)

恐怖のむかし遊び キレイになりたい (講談社青い鳥文庫)

恐怖のむかし遊び キレイになりたい (講談社青い鳥文庫)

「恐怖のむかし遊び」シリーズ第3弾は、容貌がテーマ。スマートフォンのアプリで写真を修整するように自分の顔を美しくできる鏡を使って階級上昇する話など、容貌によるヒエラルキーが確実に存在している人間社会のリアルな嫌さが描かれたホラーが並んでいます。かと思えば、人々の顔がアルチンボルドの絵画のように見えるが好きな女子だけは普通の人間に見える男子の話という、『火の鳥』で読んだようなエピソードも出てきます。容貌というテーマが認識論のレベルにまで高められながらも、それがぬるっとずらされる展開の怖いこと怖いこと。
「恐怖のむかし遊び」シリーズ第2巻でにかいどう青は、文字遊びで恐怖を演出するという技を見せてくれました。その要素はこの本でも健在です。まず、目次のページですでに怖がらせてくれます。第1話と第3話、第2話と第4話のタイトルがそれぞれ対になっていますが、第2話と第4話の文字列の壊れ方がすさまじいです。

笑い女
いナいなイタいたい。
笑い男
痛いナ居たイない。

第2巻で視覚的に最恐だったのは、愛の言葉がみっしり詰まった50ページでした。第3巻で最恐なのは、似た文字がみっしり並んだ88ページです。古文の先生が黒板に「ゐ」の字を無数に書いたら怖かろうというところから、さらに文字列を崩壊させていきます。これはじっくり見ると本当に頭がおかしくなるやつなので、さっと読み飛ばした方がいいです。
第3巻では、二人称という実験もなされています。第4話はゲスな人物が語り手となる一人称小説ですが、突然「あんた」に呼びかけ、自分がいじめ被害者にやらせた罰ゲームの内容を予想させます。そして、「たぶん、あんたが思い浮かべたいちばんひどい罰ゲームが、それだから」といいます。これは、「あんた」(読者)をいじめの共犯者として強制的に巻きこんでしまう、非常に悪趣味な趣向です。
第2話は本格的な二人称小説になっています。「あなた」も信頼できない人物であり、「あなた」と呼びかける語り手の正体も不明。ひねくれた構造で怪談における二人称の可能性を検証しています。
佐藤春夫は「文学の極意は怪談である」と述べたそうですが、このシリーズを読むと児童向けに実験小説を書くならホラーがもっとも適したジャンルなのではないかと思えてきます。ただし、異常なまでの文学愛とセンスを持つにかいどう青でなければ、このような実験的なホラーを成功させることはできないでしょう。

『まえばちゃん』(かわしまえつこ/作 いとうみき/絵)

まえばちゃん (だいすき絵童話)

まえばちゃん (だいすき絵童話)

『まんまるきつね』が2006年、『花火とおはじき』が2008年、『わたしのプリン』が2009年、『星のこども』が2014年、そして待望の新作『まえばちゃん』がようやく2018年に出ました。『花火とおはじき』が日本児童文学者協会新人賞を受賞していて実力は証明されており独特のメランコリックな文体が固定ファンを獲得しているのにこんなに待たせるとは、川島えつこは罪深い作家です。
川島作品の特徴は文体の清澄にあります。あまりに透明感がありすぎるため内臓が透けてみえるようなタイプの美しさとグロテスクさを持っています。もうひとつ、出産など表面的には生命賛歌にみえる題材を扱っていても、常に耳元で「メメント・モリ」とささやかされてるかのように読者に思わせる根源的な暗さも大きな魅力です。川島作品で肉体は、やがて朽ちていくもの、もしくは捕食されるものとして扱われています。
低学年向けの絵童話『まえばちゃん』でも、その傾向は変わっていません。『まえばちゃん』は、いままで自分を見守ってくれたまえばちゃんとお別れして新たに生え替わったスーパーまえばちゃんと出会うという話です。この流れだけを取り出せば前向きな成長物語にみえますが、実態は違います。子どもたちがダンゴムシが脱皮した皮を食べるか食べないかというクイズをしている場面があります。主人公はそこから友だちが美容院で切ってもらった髪を連想します。それは美容師に捨てられたと聞くと、もったいない、ダンゴムシだったら食べちゃうかもしれないと思います。老廃物としての皮、髪、それを捕食するイメージ。まったくいつもどおりの川島えつこです。
川島えつこ健在。次の作品はぜひ早急に読ませてもらいたいです。