『きつねの時間』(蓼内明子)

きつねの時間 (フレーベル館文学の森)

きつねの時間 (フレーベル館文学の森)

ずっと母親とふたりで暮らしていた小学6年生のふみは、どうやら自分の父親が生きていてインドにいるらしいことを知って、その秘密を探ろうとします。
出生の謎とか、芸術家気質で社会不適応気味の親といった素材には、目新しさはありません。それは逆にいえば、安心して読める素材であるということもでもあります。
冒頭のシーンが興味を引きます。ふみは読書仲間の孝太郎くんから「好きなんだ」と告白され、「たった今、孝太郎くんのこと、きらいになった」となります。他人から好意を持たれても嬉しいと思うとは限らず、ウザいとかめんどくさいとか思うこともままあるわけですが、このケースはなんなのだろうと先が気になってきます。
ふみと幼なじみのりょうとの関係もおもしろいです。ふたりとも一匹狼タイプでべたべたつるんだりはしません。でも、幼稚園時代からのつきあいで、オシッコで固めたという(嘘だったのだが)砂ダンゴを持たされて「ゲッ」となった思い出などを持っています。このつながりにより、それぞれの小6としての感性と幼年の感性に架け橋が生まれ、幼年を内部に抱えた存在としての人間の姿が浮かび上がってきます。
主人公の感性や脇役との関係性の描き方がうまく、全体としてよい雰囲気の作品になっています。

『きつねの橋』(久保田香里)

後に頼光四天王のひとりとなる平貞道の若者時代を描いた歴史ファンタジー元服したばかりで一刻も早く手柄を立てたい貞道は、人を化かすきつねと対決することになります。その葉月というきつねは陰陽師賀茂保憲の封印で都に入れないようにされていましたが、貞道とともに橋を渡ったことで封印が解けてしまいます。その縁で葉月と貞道に交流が生まれます。葉月は幼い斎院の姫君に献身的に仕えていて、姫君の方も葉月を「きれいなしっぽの、わたしのたいせつなきつね」として姉のように慕っていました。後ろ盾になる母親が病気で賀茂の祭のための扇を用意できないことを不憫に思った葉月は、貞道に扇の調達を依頼します。
賀茂保憲やら若き日の藤原道長やら、平安のスターがたくさん出てきてにぎやかです。当時の最強盗賊袴垂と貞道の因縁も物語を盛り上げてくれます。
この作品の主人公の役割は明白で、タイトルにあるように「橋」、境界の橋渡しをする能力を持っています。葉月に結界を越えさせたことが第一の仕事。あるいは藤原兼家の五の君の肝試しの手助けをしたりもします。肝試しの舞台は宮中の異界宴の松原。こんなところに異界があるとなると、はたして境界の存在は確かなものなのかということにも疑問が浮上してきます。貞道は主人公としての能力と若さゆえの無知無謀さを武器に、霊的な境界も人間関係の境界も突破していきます。
物語の主軸は、葉月と斎院の姫君の異種間百合です。相手は異種であり斎院でもあるというハードルの高さに葉月は身を引こうとします。そんな葉月を力強く応援する貞道の姿には、これこそヒーローであるという貫禄がありました。

『タテルさんゆめのいえをたてる』(ステファン・テマーソン/ぶん フランチスカ・テマーソン/え)

タテルさん ゆめのいえをたてる

タテルさん ゆめのいえをたてる

1938年にポーランドで刊行された作品の邦訳版が登場。理想の自宅を建てようと建築家のビルダーさんに相談を持ちかけたタテルさん。ビルダーさんはカタツムリやフクロウなど動物の家を紹介してなかなか話がかみあいません。ようやく設計図ができて家の建設が始まりますが、あわてんぼうで人の話を最後まで聞かないタテルさんは建築現場になかなかたどり着けません。家ができた後も、なんやかんやとトラブルが続きます。
シンプルな線で描かれたゆるいキャラクター、タイポグラフィーも駆使して文字とイラストを巧みに配置するデザイン性の高さ、絵本としての魅力が高く、眺めているだけで楽しい本になっています。
タテルさんの精神年齢や知識レベルは、想定読者とされる子どもにあわされているのでしょう。せっかく家を建てても水がなかったり電気がこなかったりというトラブルに見舞われるタテルさんですが、専門家の助けを借りて問題を解決していきます。その過程で、生活するということ、そのために人類がいかに知恵を働かせてきたのかということを、スムーズに学べるようになっています。人類の知恵に素直なリスペクトを示しているところに好感が持てます。

『南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻』(濱野京子)

南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻

南河国物語 暴走少女、国をすくう?の巻

この中華風ファンタジー『南河国物語』では、エンタメ作家のとしての濱野京子の実力がいかんなく発揮されています。レトロで楽しい娯楽児童読み物になっています。
時は千載におよぶはるかな昔のこと。紅玉というとんでもない嘘つき娘がおりました。紅玉の父は有名な将軍にそっくり。将軍だと勘違いして食べ物屋や宿屋がもてなしてくれるのをいいことに、無銭飲食していました。そこを役人に捕らえられ、将軍本人の元に連行されます。そして父は将軍の影武者の役割を強いられ、紅玉は評判の悪い太子に仕えることになります。しかし天性の嘘つきの紅玉は、そんなことでは全然ひるみません。むしろ事態がこじれるのを楽しむかのように奇行を繰り返し、異国の女将軍や仙人までも入り乱れるしっちゃかめっちゃかの大騒動を巻き起こします。
なによりおもしろいのは、主人公の造形です。とにかく肝が据わっていて、観察力も抜群。彼女の対人戦略は、初対面の人間はまず弱みを握って脅迫というのが基本。彼女の行動原理には、正義も愛も保身もありません。思いのままに悪行の限りを尽くします。彼女はルナール狐やティル・オイレンシュピーゲルの仲間のようです。
読者に語りかけるような講談調の文体も魅力的です。章のカウントが「第○回」だというのもわかっている感じがします。連載作でもないのに章の切れ目に引きを入れるのわざとらしさも効果的。それで入れ替わりとか生き別れの母とか王道のネタが繰り出されるのですから、おもしろくなるに決まっています。
いや、これが2019年の最新の児童文学だってのは嘘でしょ。70年代後半あたりの「5年の学習」「6年の学習」に2年24回にわたって連載されてた作品だといわれた方がしっくりきます。こういう味わいの作品をものせる人はもう限られているので、濱野京子はこのようなレトロエンタメをもっと書くべきです。

『わたしがいどんだ戦い1940年』(キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー)

わたしがいどんだ戦い1940年

わたしがいどんだ戦い1940年

『わたしがいどんだ戦い1939年』*1の続編。母親からひどい虐待を受けていたエイダですが、続編の冒頭ではいいことばかりが起きます。手術であっさりと内反足が直り、(あえてこういう言い方をしますが)めでたく母親が死に、オックスフォード主席のインテリで社会性にはやや乏しいが善良な女性であるスーザンが正式な後見人になってくれました。しかし、奪われた自尊心は簡単に取り戻すことはできません。エイダと世界との戦いは続きます。
エイダの置かれた新しい環境は、客観的にみればものすごく恵まれたものであるといえます。でもエイダはなかなか変わりません。人が尊厳を持って生きるということの難しさが、かえって残酷に描かれることになります。
ドラゴンが空想上の生き物だと知らずドラゴンを軍事利用すればいいと言ったりするエイダのずれた言動はギャグとして受容することもできそうですが、このシリアスな設定ではそうもいきません。スーザンは知性の不足と知識の不足を混同してはならないと理性的に説きます。しかし、スーザンに庇護されていても自分の安全を信じられなかったり、愛は空想上のものなのかと疑問を抱いたりするエイダが社会性を獲得するのは、険しい道のりとなります。
ただし、エイダの突拍子もなさが周囲によい影響を与える面も描かれています。愛情深い女性でありながらその表現方法に難のあるソールトン夫人や、最愛の女性を喪った悲しみと正面から向き合えなかったスーザンをよい方向に変えていく様子は感動的です。

『空飛ぶくじら部』(石川宏千花)

中学生の鰐淵頼子と犬走凪人、ふたりは幼いころからたびたび時間停止現象を経験していました。そんなときには必ず空に巨大なくじらが浮かんでいて、それに吸い上げられてタイムスリップしないと停止した時間から抜け出せないことになっていました。
この本では、ふたりの数え切れないタイムスリップ体験のうち、6回の出来事が語られています。とばされる時代は戦時中に昭和後期に恐竜の時代と、さまざまです。時代を越えることにより価値観の変化を学ぶという教育的要素も添えつつ、人気作家ですからしっかりとエンタメにしています。
わたしがいちばん好きなのは、あまりお説教要素のない第2話の「ゾンビ」。人気のない場所に飛ばされたふたりは、今回はゾンビに滅ぼされた未来にとばされたものだと思います。そこにマスクをした女性が現れ、意味不明な行動をとります。今の中学生の親くらいの世代であれば、これがなんの話なのか容易に予想できることでしょう。上の世代には深刻な恐怖だったものを素材にしながら、異常設定と勘違いがコミュニケーションの齟齬を生む秀逸なコメディとして料理していました。
空飛ぶくじらの目的はまったくわからず、ふたりは理不尽にもてあそばれるだけです。ふたりの名前に動物が含まれていることから、これは人類家畜テーマのSFであると予想するのは考えすぎでしょうか。ただ、小説の作中人物というのは作者の都合で振り回されるものですから、そういう意味で作品世界は実験場であり、作中人物は家畜であるとはいえます。
それにしてもふたりは、いくら場数をふんでいるとはいえ状況を淡々と受け止めすぎなようにみえます。命に関わるような事態にも慣れきっているようです。この理不尽さに対する諦念のようなものには、現代性が感じられます。

『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン)

アンチ (STAMP BOOKS)

アンチ (STAMP BOOKS)

岩波〈STAMP BOOKS〉新作は、ヒップホップ少年を主人公としたイスラエルの作品。国・題材ともに、日本に紹介される作品としては珍しいものになっています。
14歳のアンチの一家は、おじがうつで自殺してしまったために沈んでいました。そんなときにヒップホップのグループに出会い、仲間に入って一緒に自治体の運営する「暴力ではなくことばで」という大会を目指すことになります。ただし、その大会がご大層な名前の割に有力スポンサーの息子を毎回八百長で優勝させていたり、アンチの仲間が「解放」という美名のもと集団窃盗を繰り返していたりと、いろいろなねじれを抱えていました。
自殺という素材は非常に重いものですが、この作品の場合ユダヤ教文化圏なので、そのタブー度はさらに高くなっています。しかし、悪意というものは人の弱点をこそ突いてくるもので、そのおぞましさも強くなっています。ただし、物語の流れは素直なので、安心して読むことができます。
ラップバトルは文字媒体に移植しやすく、リズムに乗って流されるように気持ちよく読み進めていくことができます。アンチは一人称の地の文でもしばしば韻を踏んでいます。読む方は楽に読み流していけますが、翻訳家は大変だっただろうと苦労がしのばれます。