『しぶがき ほしがき あまいかき』(石川えりこ)

しぶがき ほしがき あまいかき (福音館創作童話シリーズ)

しぶがき ほしがき あまいかき (福音館創作童話シリーズ)

ほしがきをつくる話、と紹介してしまうとあまりにあっさりしすぎですが、その過程が魅力的に描かれていて読ませます。
竹をちょっと加工して柿をとる竿をつくったりとか、柿に紐を通す様子とか、なんでもないようなことが文章のリズムとイラストの魅力で楽しげに輝いてきます。また、柿泥棒を警戒する終盤の展開は一転して闇が効果的に使われる世界に変容し、こちらの緊迫感と弛緩も印象に残ります。
この本は横書きになっています。イラストでは木の枝や物干し竿や柿を吊しているハンガーなど横方向に伸びるものが印象的に配置されています。横方向の視線誘導はほしがきができるまでの時間の進行を感じさせる仕掛けにもなっています。

『1945,鉄原』(イ ヒョン)

1945,鉄原(チョロン) (YA! STAND UP)

1945,鉄原(チョロン) (YA! STAND UP)

  • 作者:イ ヒョン
  • 出版社/メーカー: 影書房
  • 発売日: 2018/03/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
朝鮮半島のほぼ中央に位置する鉄原の1945年の物語。侵略者から解放されたとしても、すぐに平和が訪れるわけではありません。内部にも腐敗した権力者がうようよいます。でも、悪い地主から土地を取り上げて農民に配ってもみんなが幸せにはなれなかったというのは、歴史が証明しているとおりです。
というしんどい歴史物語としての側面をこの作品は当然持っていますが、娯楽読み物としての側面にも注目すべきです。日本の読者に向けられたあとがきでは、著者が日本の少女まんがのファンであることを明かし、『ベルサイユのばら』『キャンディ・キャンディ』『ぼくの地球を守って』といった作品を愛読していると述べています。つまりこれは、日本の読者にはそういう作品として読んでもらいたいという目配せになっているわけです。
解放運動の中心人物が殺される事件が起こり、ミステリ要素が物語を牽引する重要な鍵になります。また、それぞれの立場からの人間ドラマも読ませます。有力者の子どもでありながら理想に燃える若者もいますし、既得利権に恋々として南に逃れようとあがく若者もいます。上流階級のお嬢様と下層の女子がまるで対等な関係であるかのように同じ書店で働くという夢のような空間が一時だけ実現しますが、これもはかない幻でした。
題材の重さから敬遠されがちかもしれませんが、広く読まれもらいたい作品です。

『またね、かならず』(草野たき)

またね、かならず (物語の王国2)

またね、かならず (物語の王国2)

小学6年生の陽菜は、本心を言わないクラスの女子や変容する自分の身体に嫌悪感を抱いていました。そんな陽菜でしたがピアノは得意で、ピアノ係としてクラス内の地位を確保していました。ところが偶然楽器店で見かけた自分とは比べものにならないピアノの腕前を持つ男子黒田くんが転校してきたことで、自分の居場所が奪われるのではないかとおびえます。しかし黒田くんはクラスのみんなとは距離を置いていて、ピアノが得意なことを誰にも明かしません。陽菜はだんだん黒田くんに惹かれていきます。
恋を自覚することによって第二次性徴による自分の身体や精神の変化に折り合いをつけていくという話で、草野たきにしてはプレーンで健全な作品に見えます。
しかし、いまはもう20年代になろうかという時代です。横川寿美子の評論「初潮という切札」が発表されてからもう何十年になることか。今年の児童文学を見渡すと、工藤純子の『あした、また学校で』という意欲作も出ています。この作品には、反出生主義に片足つっこんでいると言ってしまうと言い過ぎですが、生殖を称揚する価値観に違和感を抱く女子が登場します。あっけらかんと「産む性」としての「女性性」を肯定してしまう『またね、かならず』のような作品は、保守的すぎるという観点から批判されるべきなのかもしれません。
ただし、この作品には以上のような批判をまったく無効化してしまうような過剰さもあります。黒田くんが離婚し再婚した母親が産んだ弟をこっそり見ていて一緒に遊びたいと願っていることを知った陽菜は、心のなかであることを思います。わたしはこの内言を読んで、一瞬まったく意味がわからず戸惑い、しばらくしてから恐怖がわき上がってきました。
ここで思い出されるのは、性を描いた児童文学のなかで最大の問題作であると断言しても差し支えないであろう川島誠の短編「電話がなっている」の「君」です。「君」と陽菜は、「自分には好きな男子がいる。ゆえに、他の大人の男性と」という理解しにくい思考回路が共通しています。もちろん、確信的にその思想を持ち実行した「君」と、おそらく恋愛感情と性欲と生殖欲が混線して思わぬことが脳内に浮上してしまっただけなのであろう陽菜のあいだには、大きな隔たりはあります。おそらく陽菜の思考は、その願望を実現するためには具体的にどのような行動か必要なのかということにまでは思い至ってないのでしょう。であっても、このような発想を児童文学で描いてしまったことは衝撃です。第二次性徴期のメンタルの混乱を取り上げたのは意義深いことであり、それを描くためには過激とも受け取れることを提示する必要はあるのかもしれません。

『湖の国』(柏葉幸子)

湖の国

湖の国

高校に通わず、こっそり介護施設でアルバイトしていたミトですが、その居場所も親に奪われてしまいます。そこで、介護施設で知り合った沢井のおばあちゃんの家を無断借用して家出をしようとたくらみます。沢井のおばあちゃんの家は、東湖と北湖というかぎ形の湖に囲まれたところにありました。ところが、湖から大波が上がり、巨大な船が浮上、そこから介護施設にいるはずの沢井のおばあちゃんが出てきました。ミトは沢井のおばあちゃんとふたり暮らしをすることになりますが、どうもそれは本物のおばあちゃんではないようで、思いがけない事件に巻き込まれることになります。
水といえば、死の世界の象徴です。直近の柏葉作品であれば、『岬のマヨイガ』が思い出されます。それは「寛容」でありながら恐ろしさも持っています。この世とあの世の境界を越え、時間の境界を越えというテーマは、『帰命寺横丁の夏』にもつながってきます。近年の柏葉作品は非常に難解なテーマに挑んでいるので、まとまった評論が出てほしいところです。
この作品は家出物語でもありますが、家族への未練の薄さという点ではかなり突き抜けています。『岬のマヨイガ』も家族を捨てる話でしたが、それよりも先をいっていて、ミトは家族のことなどほとんど思い出すこともなく新しく出会った世界に向かって進みます。

『あした、また学校で』(工藤純子)

あした、また学校で (文学の扉)

あした、また学校で (文学の扉)

問 学校は、だれのものか。以下の選択肢から適切なものを選べ。
  ア 偉い政治家
  イ 経団連の偉い人
  ウ 文部科学省の偉いお役人
  エ B社

小6の一将の弟将人は、大縄跳びの大会に参加しようと張り切っていたのに、自主参加のはず(先生の意図としては、下手なやつは強制参加だったのだが)の朝練に出なかったことを指導担当の荻野先生に理不尽に怒られ、周囲の子どもからも下手なやつは来るなと責められて落ちこんでいました。一将の幼なじみの咲良が義憤に燃え、代表委員会の会議で問題提起しますが、ほとんどの子どもにスルーされてしまいます。その場で、委員会担当のまったく頼りにならなそうなハシケン先生は、「学校は、だれのものかって……考えたことはありませんか?」とみんなの前で問いかけました。
「学校は、だれのものか」、あまりにも当たり前すぎることですが、その当たり前を阻む現実の壁を、視点人物を替えながら作品は描いています。咲良の言葉をまったく取りあわなかった同級生の梨沙は、親から捨てられ経済的に困窮しているという現実に打ちのめされ、現状を受け入れてしまっています。正しいことが正しいとは限らない、お金のない人のためのはずの公立校にはお金がないと入れない、そんな矛盾に対して、受け入れるという対処しかできないのです。
子どもの視点、大人の視点を転変してさまざまな現代的な重要な問題提起がなされています。ただし、問題提起の部分がいいだけに、その解決法には首をかしげざるを得ません。なんと、縮緬問屋のご隠居が現れて悪代官を懲らしめてくれるのです。わたしは考え方が古いので、戦後の児童文学の流れを考えればもっと民主的な解決策を探るべきなのではないかと思ってしまいます。
いや、そんな青臭い理想主義を掲げていても現状は変えられない、世の中をよくしたければ権力を持つ者にロビイングするのが現実的だということなのでしょうか。であるとするならば、学校は権力者の気まぐれでどうにかなってしまうものであり、結局のところ学校は権力者のものだということになってしまいかねません。であれば、この作品の根本の問題提起も否定されてしまうような気がします。

『イマジナリーフレンドと』(ミシェル・クエヴァス)

イマジナリーフレンドと (児童単行本)

イマジナリーフレンドと (児童単行本)

語り手のジャック・パピエは、自分のことを「みんなのきらわれ者」だと認識しています。ふたごの妹フラーを除くみんなから無視同然の扱いを受けています。あるとき、妹がいつまでたってもイマジナリーフレンドに耽溺していることを心配して両親が話し合っているのを、ジャックは聞いてしまいます。妹が勝手に想像上の友だちなんてのを作っているのは自分に対する裏切りだと思ったジャックは、自分もスーパー・ニシンドラゴンというイマジナリーフレンドをでっちあげようとします。
カバーイラストや導入部から容易に予想がつくとおり、実はジャックがフラーのイマジナリーフレンドであったという仕掛けになっています。イマジナリーフレンドが主役になるのはA.F.ハロルドの『ぼくが消えないうちに』と同趣向ですが、本人がそれに気づいていないというシチュエーションをコメディにしているところに『イマジナリーフレンドと』のおもしろさがあります。本人がそのことを自覚すると、それならば「みんな(やっぱり)ジャック・パピエをきらっている」という章タイトルは表現が不適切だと、事後に書きかえるというひねくれた遊びもなされています。
主人公の正体が露見したのち、ジャックは自由を求めて自分の境遇からの脱出を図ります。しかし、イマジナリーフレンドを支配するお役所的なシステムが立ちふさがり、なかなかうまくいきません。中盤も、コメディ色強く物語は進行します。となると、しっとりした感じのカバーイラストは表紙詐欺ではないかという疑惑が浮上してきますが、そこがどうなるかは読んでのお楽しみということで。

『こちら妖怪お悩み相談室』(清水温子)

こちら妖怪お悩み相談室

こちら妖怪お悩み相談室

第16回ジュニア冒険小説大賞受賞作。ぬらりひょんがボスを務めている妖怪相手のお悩み相談所で活動している小学6年生のリカの物語です。
導入部がうまいです。特に設定説明もなくいきなりリカが垢なめからの電話相談を受ける場面から始まります。そのなかでこの相談所にはマニュアルや研修もあることが明らかになり、ある程度きちんとした思想や手法を持ったうえでこの相談所が運営されていることがわかります。ところが、その相談内容がほぼ犯罪の指南。防犯カメラのせいで家屋に侵入しにくくなったという垢なめに、玄関の防犯カメラは偽物の可能性があるとか、窓にはカメラがないかもしれないから確認しろとか、かなり具体的に家宅侵入の手口を教えてしまいます。
導入部はそんな感じですが、相互理解や多様性がテーマになっていて、内容は至って真面目です。ただしボスのぬらりひょんは、妖怪のなかには問答無用で人間を食べるような危険なものもいると警告することを忘れません。配慮が行き届いていて、作者は誠実な人なのだろうなあということが伝わってきます。
ただ、そういうところに目がいってしまうということは、娯楽性で物語に没入させる力が不足していたということでもあります。この物語はお説教ありきでこしらえられたものなのだろうということが透けてみえてしまっています。導入部のレベルの娯楽性が最後まで維持できなかったのが惜しいです。