『レッツはおなか』(ひこ・田中/さく ヨシタケシンスケ/え)

レッツはおなか

レッツはおなか

ひこ・田中ヨシタケシンスケの絵童話「レッツ・シリーズ」の久しぶりの新作が出ました。第1作『レッツとネコさん』は2010年の作品ですから、『りんごかもしれない』などでヨシタケシンスケが大ブレイクする以前の刊行ということになります。そう考えるとずいぶん昔のような気がします。
でもブランクがあっても、このコンビの息はぴったりです。物語の冒頭は「なかよし」がすぎる両親がお互いに膝枕をしあっている場面です。レッツは膝枕をされている方が目を閉じて笑っているのを見て「こわいな」と思います。しかし、かあさんに膝枕をしてもらったレッツも、同じ気持ち悪い顔をしていました。自分の顔が見えないレッツはツッコミを入れることができないので、ここでツッコミを入れるのは読者の役割になります。しかしその行為をするのは、著者と画家の掌で踊らされていることに他なりません。この著者と画家の共犯ぶりが憎いです。
レッツは他のひこ作品に登場する子どもと同様、頭がよく探究心の強い子です。そんなレッツが今回思索のテーマにするのは、自分の胎内時代。自分は昔かあさんのおなかの中にいたのだという思いがけない情報を聞いたレッツは、こわい想像をふくらませます。おなかの中にいると上から食べ物が落ちてくるんじゃないかとか、おなかは「グジュグジュグジュ、グルルルル、ギョベギョベ」とかこわい音が聞こえてくるとか。いまの自分にはその環境は耐えられないと悟ったレッツは、「五さいに なったら、弱虫に なった」と思ってしまいます。発達段階なりの子どもの思考をトレースするのはひこ・田中の得意技ですが、この五歳児の思考には笑わせてもらえます。
さて、なんやかんや考えたレッツは、この両親の元に生まれたことを肯定し、「この 家に いる ことに します」と宣言します。子どもが前世で親を選んで生まれてくるというのは、児童虐待者に都合のよい唾棄すべきオカルトです。レッツの思想は、これとはまったく異なります。自ら考えいまの生を選び取ったレッツの行動は、自らの誕生を肯定する尊いものです。

『ゆりの木荘の子どもたち』(富安陽子)

百年以上の歴史を持つ洋館「ゆりの木荘」を舞台とした不思議な物語。いまでは老人ホームとなっている「ゆりの木荘」の住人たちが、玄関ホールにある大きな振り子時計が猛スピードで逆回りを始めたことから、思いがけない事件に巻きこまれます。
冒頭の、巨漢のばあさまと小柄なばあさまが仲良くベンチで茶飲み話をしている場面からいい雰囲気です。ばあさまを描くのが達者な佐竹美保も、平和でゆったりした時間にいろどりを添えています。しかし、振り子時計が動き始めてからは話は急展開。「ゆりの木荘」の住人たちは何十年も若返って子どもの姿になってしまいます。周囲を調べてみると、「ゆりの木荘」の様子も変わりカレンダーが昭和16年のものになっていたので、どうも若返ったというより時間が巻き戻ったようだということがわかります。
時間旅行だったり、手まり歌だったり、あれな存在だったり、作中に出てくるガジェットはお約束のものばかりなので、大人の読者であれば容易に作品世界の秘密を予想することができるでしょう。それらが整然としつつ情感たっぷりに並べられているので、非常に端正で安心して読めるファンタジーになっています。

『ネバーウェディングストーリー』(ひこ・田中)

クラスのあぶれ者三人組が街を探索する「モールランド・ストーリー」シリーズの第3弾。
三人組のひとりのコトノハの家は、34階建てのマンションの32階。そこに隣接されているショッピングモール内を通っていくと、小学校にたどり着きます。この範囲がコトノハがふだん過ごす世界のほとんどすべてでした。ところがモールの先に高級ホテルができました。コトノハはここを新たな遊び場にできないかと考え、探索を開始します。
2階のエントランスは制服の人がドアを開けてくれるのでかえって入りにくく、1階には門番はいないけど子どもには縁のないブランド店が並んでいるのでさらに入りにくい。コトノハは試行錯誤しながら行動範囲を広げていきます。大人からすればコトノハの世界はあまりにも狭くその冒険もささやかなものにみえるかもしれませんが、ひこ・田中は子どもの感覚でその冒険をなぞっていきます。するとその冒険は、RPGで少しずつ世界を広げていくようなわくわくする楽しさを帯びてきます。
ホテルはいままでのコトノハの世界にはなかったハレの場。でもコトノハはそこで、結婚式という不気味なものを発見してしまいます。コトノハが徐々に結婚式の秘密に迫ってしまうサスペンス性が物語の後半を引っ張っていきます。ホテルで行われた結婚式に違和感を覚えたコトノハは、そこで行われたことを整理してみます。

新婦は父親と二人で白いカーペットの上を歩く。
祭壇の前で、新婦は父親から新郎に渡される。
牧師が聖書を読む。
賛美歌を歌う。
二人が誓いの言葉を言う。
結婚指輪を交換する。
二人がキスをする。
賛美歌を歌う。

コトノハは結婚式に隠された秘密を探るため、三人組で一緒に新郎・新婦・新婦の父親ごっこをしてみます。シミュレーションをして考えようという賢さは、ひこ・田中作品の登場人物らしいです。そして役割演技をすることで、この世界で女として生きるということがどういうことかということに、女子だけでなく男子も気づいてしまうのです。こう考えると結婚式という儀式はホラーでしかないわけですね。
一歩立ち止まって世間で当たり前とされることの本質を考えていく、ひこ・田中らしい鋭い社会派児童文学になっています。欲をいえば、ここまでやるならいっそコトノハの両親は法定婚をしていなかったという設定にするところまで踏みこんでもよかったのではないかと思います。

『ぼくと母さんのキャラバン』(柏葉幸子)

ぼくと母さんのキャラバン (文学の扉)

ぼくと母さんのキャラバン (文学の扉)

ある晩、牛乳を飲みに台所に行った小学5年生のトモは、人語を話す巨大ネズミに出くわしました。「前殿」と呼ばれるネズミは、トモの母親の「ゆみえ殿」を探しているようですが、母親は姿を消していました。母親に頼みごとがあったらしい前殿は、仕方なくトモを頼ることにします。
前殿はこの世界と重なり合っている異世界の住人で、以前からゆみえ殿と交流がありました。異世界同士が交差していると土地が分断されてしまって、前殿の世界で離れた場所に行くさい、トモの世界を経由して行かないとたどり着けないようになっていました。そこで前殿はラクダのキャラバンをゆみえ殿に先導してもらおうと思っていましたが、行方不明になってしまったので息子を代役に立てます。
トモは母親のことを、出不精で人嫌いな社会不適合者だと思っていました。しかし前殿や月の輪熊の「月殿」はゆみえ殿を信頼していて、初対面で泣き出したトモのことは軟弱な臆病者だと思っています。トモは不本意にも、伝説の勇者の不出来な息子としての役割を与えられてしまいます。
目次の後にある地図がいい具合に物語への期待感を高めてくれます。異世界には巨大ネズミや月の輪熊やラクダたちがいます。そしてトモの世界も、夜になると別の顔を見せます。川や橋には「川守」「橋守」という境界の番人がいて、公園の遊具も動き出したり、幽霊も出現したりと、大騒ぎ。統一感がないといってしまうとそうなのですが、わちゃわちゃした感じが楽しいです。
トモ側からみれば、これは自分が勇者の息子の役割を押しつけられる物語です。しかし上の世代の方からみると、かつてファンタージエンに行った者のその後の物語ということになります。大人が読む場合は、そっちの視点で読むとより感情を動かされるのではないでしょうか。

『月と珊瑚』(上條さなえ)

月と珊瑚 (文学の扉)

月と珊瑚 (文学の扉)

沖縄で暮らす小6女子の物語。母親は福岡で働いているので、主人公の珊瑚はルリバーと呼ばれる民謡歌手をしている祖母と生活しています。ふたりの生活は楽ではなく、スマートフォンを買ってもらうこともできません。

「わたしは、六ねんせいになったので、べんきょうをがんばります。」

序章が衝撃的です。勉強の苦手な珊瑚は作文をけなされたことをきっかけに学力向上を図り、その手段として日記をつけ漢字を少しずつ覚えようとします。その日記がこの作品であるという設定になっています。その文章は上に引用したようなもの。自分の名前も漢字で書けないような珊瑚の低学力は、もちろん珊瑚個人の問題ではありません。
物語は珊瑚とふたりの転校生の関わりを中心に展開されます。ここでの転校生の役割は、格差の存在をはっきりさせるという残酷なものになっています。転校生のひとりは、頭がよくて政治家を目指しているが言動がずれている水原詩音。彼女が珊瑚の作文をばかにしたことが、珊瑚の変化のきっかけとなります。沖縄は学力テストの平均点が低く、子どもの貧困率も高いと、彼女は知識をひけらかします。
もうひとりの転校生は泉月(いずみ るな)。初対面で月のかっこよさに打ちのめされベルばらのオスカルのようだと思った珊瑚は、月と関わるたびにドキドキしてしまうようになります。
月が前に通っていた学校は超お嬢様学校で、まるでベルサイユ宮殿のような外見。そして月の住居も沖縄のセレブしか住むことができない高層マンション。珊瑚は格差を意識させられます。でも、珊瑚の窮状に的確に気配りをしてくれる月の態度はまさに庶民の味方のオスカルのようだと感じて、彼女への思いを募らせていきます。
オスカルがかっこいいのは当然ですが、一見悪役にみえる水原詩音の方も、なかなかおもしろい個性の持ち主です。彼女は思考がちょっとずれているので、自分の言葉が相手を傷つけるということに考えが及ばず、頻繁に悪意なく暴言を言ってしまう子になっています。ただし場合によっては彼女の空気の読めなさがいい方向に向かうこともあります。彼女が思いがけない理由から基地反対派にまわる展開には笑わされました。
また、沖縄のバカ男子たちも魅力的です。男子の最低限の目標は、成人式で暴れない大人になること。これもそういう方向に導かれてしまう構造的問題を考えれば笑えないのですが、彼個人の決意は尊いものです。
沖縄を舞台にした児童文学は必然的に社会派にならざるをえないという現状は、なんともやりきれません。ですが、この作品は子どもたちのたくましさと善良(?)さに救われています。

『魔女ラグになれた夏』(蓼内明子)

魔女ラグになれた夏 (わたしたちの本棚)

魔女ラグになれた夏 (わたしたちの本棚)

青森市に住む三姉妹の末っ子岬の2020年*1夏の物語。長女の光希は2000年のシドニーオリンピック、次女あてねちゃんは2004年のアテネオリンピック、末っ子岬は2008年の北京オリンピックと、三姉妹はみんなオリンピックイヤーに生まれていました。東京オリンピックを前にしてひとつ上の姉のあてねちゃんの様子がおかしくなり、岬は心配でたまりません。
蓼内明子は成長の一過程にある子どもの存在を切り取りません。前作の『きつねの時間』もそうであったように、幼年と結びついて歴史性を持った立体的な存在としての子どもを描いています。
機嫌が悪いことが多いけど大好きな姉のあてねちゃん、なぜかいつも避けているクラスメイトの紗奈ちゃん、ふたりの女子に対する岬の感情が物語の主軸になっていきます。その背景には幼稚園時代の、当時好きだった魔法少女アニメの悪役「魔女ラグ」のキーホルダーをめぐる出来事があったようですが、語り手の岬はその詳細をなかなか語ろうとしません。それを引っ張るのは作劇の構成上の都合といってしまえばそれまでですが、ここでは語ること・語らないことという作品のテーマと結びつけているところが巧妙です。
ここで重要になってくるのが、岬と幼なじみの要の「契約」関係です。岬は親が経営しているスーパーマーケットから高めのアイスを失敬してきて要に与え、その代わり一方的に話を聞いてもらうという「契約」を結んでいました。話を聞く技能といえば、エンデの『モモ』が思い出されます。ただし、モモは童心が美化されたファンタジーの存在で、実際は人の話を聞き続けるのはかなりの苦行となります。このような過酷な感情労働にはそれにふさわしい対価が支払われるべきであるという方向に、世の中は進んでいます。
少々話が脱線してしまいましたが、このふたりの「契約」関係は興味深いです。要はかなりいい子なので、別にアイスなどあげなくても愚痴くらい聞いてくれそうです。でも、自分の思いを伝えることが苦手な岬は、それでは話をすることはできないのです。取引というドライな関係を介在させることでコミュニケーションを円滑にするという賢さは現代的です。
コミュニケーションという普遍的なテーマに独自の処理を施していて、姉妹愛の物語として美しい、なかなかの良作です。

*1:巻末に「オリンピックに関する内容は、執筆時のもので、実際とは異なります。」との注意書きがある。

『ぼくたちがギュンターを殺そうとした日』(ヘルマン・シュルツ)

1945年のドイツの農村が舞台。村の子どもたちは、難民の子どもで「頭がいかれている」と見做されているギュンターという少年に石を投げつけて暴行し、はては口封じのために殺害しようと画策します。
子どもが子どもを殺すということは、いつの時代のどの地域でも起こりうることですから、時局にばかり目を向けてしまっては本質を見失うでしょう。ただし、この時代のドイツの大人が悪い見本を示していたことも忘れてはなりません。すなわち、「価値のない人間は生きるべきではない」という思想です。もちろんこの思想は過去のものではありません。むしろ差別思想に基づく未曾有の大量殺人を招いた現代の日本でこそ、正面から向き合わなければなりません。
子どもの暴力、差別が生む暴力、戦時の暴力、そして、人を殺す目的でつくられた銃という道具。さまざまな暴力が折りかさなり、重苦しい作品になっていました。