『あの子のことは、なにも知らない』(栗沢まり)

貧困家庭の子どもを写し取った『15歳、ぬけがら』で鮮烈なデビューを果たした栗沢まりの5年ぶりの新作であるというだけで話題性十分の作品です。
卒業生の成長を記録したスライドショーと親への感謝の手紙を渡すセレモニーが地域や保護者から高評価を受けている卒業祝賀会が伝統となっている中学校が舞台の物語。卒業祝賀会の実行委員長を務める優等生の秋山美咲は、感謝の手紙やスライドショーに必要な幼少期の写真を提出しない生徒たちにいらだっていました。特に厄介に思っていたのは、1月中旬という中途半端な時期に転校してきた「ハズレくじの景品」みたいな渡辺和也のこと。一方、別の祝賀委員の本間哲太は、和也の別の顔を知っていました。スーパーを営んでいる親が和也に弁当を渡していて、和也がそれについて感謝するそぶりを見せないことを少し不満に感じていました。
この作品で怖いのは、体面と伝統だけを重んじ弱者を平気で切り捨てる前田という教員を、初期状態の美咲が理想のリーダーとして崇拝していたことです。ご立派なキャリアを持っているらしい美咲の母親も最低の人間で、美咲が貧困のことを話題に出すと「『子どもの貧困』ってワードは、一種のトレンドなんじゃないかな」「それを語っていればかっこいい。っていう感覚の人も、中にはいるんじゃない?」と言い放ちます。
冷静に自分の中学生時代の視野の狭さを思い出すと、幼い正義感で弱者を攻撃する美咲の考えを簡単に非難することはできません。若いころは、冷酷さや残忍さをリーダーシップであると誤認することもありえるでしょう。ただし、大人になってもそのような考え方をしている前田や母親はいかんともしがたいです。
救いなのは、「なにも知らない」状態から知っていくことで誠実に考えを改め、和也たちが参加できる祝賀会のあり方を探っていく実行委員の子どもたちの姿です。伝統という虚ろであるがゆえに大きな壁との戦いでは、時に無力感に打ちのめされることもあります。しかし、子どもたちの熱は着実に爪痕を残します。この作品も『15歳、ぬけがら』とともに、社会派児童文学史に名を残す作品になりそうです。
欲をいえば、弱者を圧殺する悪の正体にもっと踏みこんでもらいたかったです。作中で悪役として振る舞う前田や母親は、実際のところ末端の小悪党に過ぎないのですから。

『ライトニング・メアリ 竜を発掘した少女』(アンシア・シモンズ)


あの木地雅映子が、『氷の海のガレオン』の主人公杉子という「少女」を生み出した木地雅映子が「純度の高い「少女」を摂取した」という賛辞を送っていること。この意味を理解できた人々は、このツイートを見て秒で本屋に走った(もしくはネット書店に注文した)ことでしょう。幼いときに雷に打たれて生き延びたため稲妻(ライトニング)メアリの異名を持つ化石発掘家の女性メアリ・アニングの人生を元にした児童文学です。
約200年前に身分の低い女性として生まれたことから、イクチオサウルスの発見などの大きな学術的成果をあげても手柄は身分の高い男性に奪われてしまうという不遇の人生を送りました。しかしどんなに不遇でも、自らが科学者であることに矜持を持っているメアリは、強烈なパーソナリティーで我が道を進みます。この「少女」性がこの作品の一番のみどころです。
なにしろメアリは、自分以外のほぼすべての人間を「ばか」だと思っているので、独立独歩で生きるしかないのです。尊敬する父がけがで死にかけていても入手したばかりのウナギの頭蓋骨を見せることばかり考えているメアリ。ドレスを着せられても「この頭と顔は、他のどんな目的のためにあるというの? 飾りじゃないことは確かだ。脳みそを入れておく容れ物だ。それ以上でも、それ以下でもない」と内心つぶやくメアリ。「純度の高い「少女」」的なエピソードを挙げていくときりがなくなります。
木地雅映子を信じて大正解でした。自由な魂のあり方を追求する「少女」性の輝かしさを存分に堪能させてくれる傑作でした。

『ガラスの顔』(フランシス・ハーディング)

表情を持たない人々が生活する地下の洞窟都市カヴェルナを舞台としたファンタジー。チーズ作りの匠に助けられた記憶喪失の少女ネヴァフェルは、階層世界であるカヴェルナを駆け回り、都市を揺るがす陰謀に挑んでいきます。
根本の設定だけを取り出せば、それほどオリジナリティのあるものとはいえません。地下世界にしても、表情がないという設定にしても、誰しもいくつか類作は思い浮かぶことでしょう。しかし、味付けの濃さとサービス精神はハーディングならではです。
巻末の謝辞は、たくさんの洞窟にも捧げられてます。それだけの洞窟を取材した成果をもとに、架空の地下世界が綿密に作りこまれています。そこに魔法のような効果を持つ食べ物を仕こんで、事態を混乱させます。さらに、クレプトマニアのクレストマンシーみたいな名前の怪盗をはじめとしたくせのあるキャラクターたちを配置し、一大エンタメ空間を築きあげました。
ハーディング作品の一番の名物といえば、勇敢で狡知に長けた少女です。ネヴァフェルもフェイスらと同等の魅力を持っていいます。作中では不可解な事件が起こり謎解きがなされるのでミステリ要素も強く、また特殊状況下での頭脳バトルものとしても熱い展開をみせてくれます。ミステリ要素のみに注目するのであれば、『嘘の木』に次ぐ満足感を得られることは間違いありません。

「あたしが得意なのは機械なの。機械って魔法みたいでしょ。長い時間をかけて計画を立てて、すべての歯車を配置して、パン! レバーを引くと動き出す。すばらしいのは、レバーを引く人がその仕組みを理解している必要はないってこと。なにが起きるかすら知らなくていい。あたしは機械みたいな計画を立てたい。」

『サムデイ』(デイヴィッド・レヴィサン)

毎日別の人間に憑依する精神寄生体のAと人間のリアノンの恋物語『エヴリデイ』の続編。ひとりの人間の体を乗っ取って連続した人生を送る方法があることを知ったAですが、それを実行する決断ができず逃亡したというのが、『エヴリデイ』のラストでした。『サムデイ』では(元)恋人のリアノンやAに憑依された経験のあるネイサンがAの行方を捜索します。ためらいなく他人の体を使用しつづける精神寄生体のXも暗躍し、物語は混迷します。
作品は、AとXの議論バトルをクライマックスとして収束していきます。この論点は錯綜していて一筋縄ではいきません。

人間はどの時点で、生きるために体を必要としなくなるのだろう。(中略)おれのアイデンティティは、おれの代わりにケーブルを伝って世界中を駆け巡る。体は今や、あとからついてくるものにすぎない。体は出生地というだけで、ホームではない。
(p190)

こういったXの思想は、人が精神のみによって生きられるようになる未来を見据えたSF的な視座に成り立っています。
一方、寄生先の人間にセクシュアリティなどが同化するAは、精神と身体に無知のヴェールをまとったような状態で生きています。これは、多様性の時代のアイデンティティのあり方を思考実験するための設定として機能しており、地に足のついた社会派作品として議論することもできます。
そんなAに対し、Xは自分は男性であるという強固な性自認を持っていて、自らのアイデンティティを大事にしています。精神寄生体であっても、そのあり方は多様で、ひとくくりにすることはできません。
あまりにも議論が複雑なので、作中人物に確固たる正解を求めるような読みかたは、この作品にはなじみません。作中の議論からどれだけのものを引き出せるか、それは読者次第です。わたしはXよりもリアノンの愛の思想の方が怖いような気がするんですけど……。
以下、作品の結末に触れるので、未読の方は読まないようにお願いします。


















それにしても、最後の最後で主人公を差し置いて「真実の愛があるとしたら、どこにある?」「本屋か、文芸フェスに決まってるだろ」で全部持っていくのずるくないですか? 「ぼくたちは、想像していたよりはるかに似てたみたいだね」は、できすぎじゃないですか?

『レッツ キャンプ』(いとうみく)

小学4年生の晴斗は大介くんとふたりきりでキャンプに来ていました。大介くんはお母さんが働いている美容院の同僚で、晴斗の新しいお父さんになったばかりの人。大介くんは晴斗との距離を詰めようとはりきりますが、すべて空回り。同じキャンプ場にきているもうひと組の親子は手際がいいのに、大介くんは失敗ばかりしてしまいます。晴斗はうんざりしていく一方です。
以前の晴斗は、母親の友だちのちょっとおもしろいお兄さんとして大介くんと親しくしていました。しかし子どもの目はシビアなもので、父親になるとなると、実務能力を厳しく審査してきます。父親の能力は自分の生存と関わってきますから、厳しくなるのは当然です。中盤まではしんどいギスギス感を存分に味わわせてくれます。
そこで突破口になるのは、旅先での出会いです。二度と会うことがないからこそ深刻な悩みを打ち明けることができるというのが救いになるというドライさがおもしろいです。
新しい家族の出発の物語としてなかなかの作品でした。

『ぼくたちのスープ運動』(ベン・デイヴィス)

イギリスの社会運動児童文学。都会から田舎に引っ越してきた少年ジョーダンは、あるきっかけでホームレスにスープを差し入れする活動を始めます。インフルエンサーを目指す姉のアビがその模様を拡散したことから、善意の輪とホームレスを排除しようとする勢力の戦いがどんどん拡大していきます。
ジョーダンには入院経験がありました。アベンジャーズごっこをするなら「ぼくはハルク? ぼくも放射線をいっぱい浴びているからね」というブラックジョークをいえるくらいの深刻な病気で。そこで出会ったリオという少女からユダヤ教の『ミツヴァー』という善行について教わり、それがジョーダンの行動の原動力になります。
過酷な闘病生活でジョーダンはPTSDのようになります。ジョーダンがはじめに知りあったホームレスのハリーは、イラクで戦っていた傷痍軍人でした。彼もPTSDで悩まされています。体にも心にも深刻な傷を負った者たちの連帯から、物語は動き出します。
ただ、そういうキャラクターばかりだと話が重くなる一方なので、にぎやかし要員も配置されています。姉のアビはただの目立ちたがりでバズを狙っているのかと思いきや、「警察権力」などという用語を使いこなす根っからの活動家タイプで、誰が相手でも臆することなくノリノリで暴れ回ります。
ジョーダンが通う学校の校長も活動家くずれのようで、「権力に立ち向かうんだ。若者よ。権力にあらがうんだ」と煽り、なにかと手助けをしてくれます。しかし、日本の児童文学だとこのポジションは『兎の眼』の足立先生のようなアウトロー平教員が担いそうなものですが、これが校長だというのは国柄の違いのようで興味深いです。
終盤は、布石をうまく使い読者の涙腺を何度も決壊させようとしてきます。この連続攻撃は、さすがにやりすぎ感もあります。が、理性ではそう思っていても、まんまと泣かされてしまいます。
善意が世界を救うというおとぎ話ではありますが、そういうおとぎ話にこそ現実を変える力があるのだと思わせてくれる良作でした。

『君色パレット いつも側にいるあの人』『君色パレット SNSで繋がるあの人』

〈多様性をみつめるショートストーリー〉と銘打たれたアンソロジーの第2巻と第3巻。いくつかの作品について、簡単に感想を記します。

高田由紀子「姫のゆびさき」

ネイルという趣味を隠している虹色と、「先天性四肢障がい」で右手の中指と薬指は極端に短いけどいつも堂々と振る舞っている咲姫の物語。虹色にネイルを塗ってもらった咲姫は、ひとりだけ私立中学に進学して自分のことを知らない人ばかりの環境に置かれることへの不安を吐露します。救う者と救われる者が反転して反転して、お互いの生きる道を示しあうという関係のあり方が美しいです。進学後のふたりがこのような深い関わりを持つことは、おそらくないでしょう。それゆえに、はかないひとときのやりとりの尊さが輝きます。
カバーイラストと本編の最後のイラストを連動させる演出は、ずるいです。

いとうみく「にじいろ」

ふたりの母親を持つ女子の話。いとうみく作品の特色は、よくも悪くも昭和感のあることころです。今回は、おでん屋という昭和感漂う空間にレズビアン婦婦を配置したミスマッチがよい方向に働いているように思われます。一方で、差別の構造を利用して自分の欲望を押し通した邪悪の権化がいい人然として描かれ断罪されないことには疑問が残りました。

如月かずさ「プロジェクト・チュウニ」

ユーチューバーを目指す男子の物語。まだ多くの大人からは白眼視されるこの職業に夢を持つことを全肯定したのが、如月かずさならではの先進性です。それにしても、時代を先取りしすぎていた『カエルの歌姫』がもしYouTuberやVTuberの地位が向上したもっと後に出ていたらどのような作品になっていたのかというのは、気になるところです。

佐藤まどか「ジルと柚」

学校での人格とネット人格を使い分けている女子の物語。強固な序列意識を持っていた主人公が自分より格下と思っていた相手にすがって拒絶され、自分自身と誠実に向きあうことを余儀なくされる厳しい展開がよいです。