『海べの音楽 ペンダーウィックの四姉妹3』(ジーン・バーズオール)

ペンダーウィックの四姉妹3 海べの音楽 (Sunnyside Books)

ペンダーウィックの四姉妹3 海べの音楽 (Sunnyside Books)

「ペンダーウィックの四姉妹」シリーズの3巻が刊行されました。父親と新しい母親のアイアンサがイギリスに新婚旅行に出かけ、長女のロザリンドは友達とニュージャージー州に行き、残された妹たちはクレアおばさんメイン州の海辺の町で休暇を過ごすことになります。長女がいないためOAP(Oldest Available Penderwick・ペンダーウィック姉妹の最年長者)は素数ブラックホールを愛する理系少女のスカイとなります。姉妹のなかでもっとも暴れん坊のスカイが指揮官では、どうなることやら。姉妹は最大の試練に直面することになります。
スカイは海に飛び込んで大事なことを書いたメモ帳をびしょぬれにしてしまい、さっそく先行きがあやしくなります。判読不能のメモにはバディの「ふくらみすぎに注意」とか意味のわからないことが書いてあって、末っ子が破裂するかもしれないという不安に襲われます。頼みのクレアおばさんが負傷してしまうと、スカイはたまたま目の前にあったという理由で木に蹴りを入れることしかできず、三女ジェーンとバディをおびえさせてしまいます。それでも、とりあえずごはんを食べようというナイスアイディアを思いついてその場をきりぬけます。
試練を与えられるのはスカイだけではありません。文学少女のジェーンは作家としての新境地を開くために恋愛小説に挑戦しますが、スランプに陥ります。恋愛小説を書こうと思ったのは要は恋愛に興味を持ちはじめたからで、いままで恋をした男子はナルニアのピーターくらいだったのに、初めてリアル男子に恋をして舞いあがってしまいます。
バディもロザリンドに頼りっきりではダメだと思いはじめており、少なくともスカイの前だけでは泣くのを我慢しようという悲壮な決意で休暇に臨んでいました。
不在のロザリンドにも、妹離れしなければならないという試練が与えられています。この作品、21世紀に書かれた作品なのに姉妹は携帯電話もスマートフォンも持っておらず、通信手段は固定電話だけです。それもなぜか接続が悪くいつの間にか切れてしまうという設定になっていて、姉妹をいい具合に分断します。
そういった試練はありますが、トラブルがあってもそこからシームレスに遊びや妄想の世界に接続されるので、シリーズの最大の特長である幸福感は健在です。スカイがブラックホールを観測する宇宙船の副船長になる妄想をしていると、そこにジェーンの妄想が割りこんできたりとか、このふたりシンクロ率が高すぎてどうしたものか。
シリーズの残りはあと1巻。早く翻訳を出してもらいたいですが、この世界とお別れしたくないのでほどほどに時間をおいてほしいという気持ちも同居しています。

『3つ数えて走りだせ』(エリック・ペッサン)

3つ数えて走りだせ

3つ数えて走りだせ

フランスの中学生アントワーヌとトニーが、特になにも考えずに3つカウントして走り出し、思いがけない数日の逃走劇を繰り広げます。
ふたりは暗いトンネルを越え、川を越え、いくつもの境界を越えていきます。無計画に走り出したため、食料を調達するためには盗みをはたらかなければならなくなり、犯罪に走るという一線も越えてしまいます。
ページが進むと、なにも考えていないようにみえたふたりの家庭環境の問題や、フランスの社会問題も浮上してきます。それももちろん重要ですが、この物語の主眼はあくまで走ることです。逃走はすなわち闘争です。著者はあまり大きな事件を起こそうとせず、走るということに焦点を当てて140ページほどのコンパクトな物語にまとめています。この物語の手綱さばきはみごとです。
物語の語り手であるアントワーヌには、事件終了後にマスコミが報道した〈物語〉に対抗しようという意図もあったのでしょう。

走り続けた本当の理由が、そのときはまだわからなかった。人はろくすっぽ考えもせずに、なにかを始める。そしてその意味がわかるのは、ずっとあとになってからなんだ。

ぼくたちの話を、いま、ここに語ろう。真実を明らかにするためというよりも、結局のところ、それが、とてもすばらしい物語だと思うから。
(p9-p10)

少年にとって、語ることも大人との闘争なのです。
物語の中盤で、アントワーヌが作家志望者であったことが明らかになります。そのため、この語り手の信頼度は低く見積もらなくてはならなくなります。アントワーヌはなにを語らず、どこで嘘をついているのか、そのあたりを考えながら読むと、作品をさらに楽しむことができそうです。

『ホイッパーウィル川の伝説』(キャシー・アッペルト&アリスン・マギー)

ホイッパーウィル川の伝説

ホイッパーウィル川の伝説

主人公のジュールズは石マニアの11歳の女の子。ジュールズには、自分とは正反対の姉がいました。有望な陸上の選手で活発な性格の姉シルヴィは、ジュールズの前から姿を消してしまいます。
自分とは違いすぎる姉に対する、嫌いと好きが表裏一体になった感情の描き方が繊細です。亡母の記憶をジュールズはほとんど持っていないのにシルヴィはいろいろ知っていることなど、ジュールズは姉に対して様々な屈託を抱えています。それでありながら、やはり本心では姉のことが大好きで、ふたりで雪だるまをつくって遊ぶ場面などはとても楽しそうです。
しかし姉は、「奈落の淵」と呼ばれる川が地面の下に流れ込む危険な場所に近づいて行方不明になってしまいます。母はずっと前に亡くなっていて姉もいなくなり、アフガンで友を喪った帰還兵の若者もからんできて、作品世界は喪失感に支配されます。
なんといっても目を引くのは、「奈落の淵」という地形の不気味さです。暗い地下の流れにはまりこんでしまったらどうなるのだろうと、想像力をかきたてられずにはにはいられません。森・川・洞窟からなり、様々な動物たちが登場する舞台は、根源的な恐れや畏れの感覚を呼び覚まします。
この作品では、自然と動物の世界と人間の世界、死者の世界と生者の世界が渾然一体となっています。そんな原初的な信仰の世界で繰り広げられる喪失の物語は、美しくも悲しく神秘的で、読者の心を打ちます。

『あたしのクオレ』(ビアンカ・ピッツォルノ)

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)

間違いなく傑作なのに、人に勧めにくい作品です。なにしろこの作品、主人公グループがひたすら悪役に負け続けて勧善懲悪がなされないので、読者は怒りを抱えたまま取り残されてしまうのです。
現代イタリアを代表する児童文学作家ビアンカ・ピッツォルノが、自身の子ども時代であった1950年代のイタリアを舞台として作り上げた学校小説です。そこそこの上流家庭の子どもであるプリスカ・ロザルバ・エリザの仲良し三人組のクラスに、スフォルツァ先生という新しい担任がやってきます。この先生、富裕層の子どもと貧困層の子どもが近くの席にならないように座席を配置するなど、差別的な教育をおこなっていました。留年して自分の受け持ちになった困窮家庭の子どもアデライデとイオランダを特に嫌っていて、ことあるごとにいためつけていました。正義感に燃える三人組はなんとかしてスフォルツァ先生に一泡吹かせてやろうと考えますが、ことごとく裏目に出てしまいます。
たとえばエリザが汚い言葉を使って先生に反抗すると、先生はイオランダがそそのかしたのだと濡れ衣を着せ、イオランダを放校処分にしてしまいます。反抗すればするほど結局はアデライデとイオランダがもっといたぶられることになります。そのため、ふたりとも放校になって守るべき者がいなくなってからでないと本格的な反抗を始められないという、なんとも皮肉な事態になってしまいます。
主人公三人組の正義感と生命力にあふれ機知に富んだキャラクター造形、楽しいいたずらの数々などに目を向けると、宗田理山中恒などの悪い大人ぶっ殺す系統の爽快なエンターテインメント作品のようにみえます。実際、時限爆弾形式の生物兵器を使った最終作戦などは、そのアホらしい作戦を成功に導くために実験を繰り返す様子などがとてもユーモラスに記述されていて、楽しく読み進めていけます。しかし目次を見れば、その作戦後の章タイトルは「エリザの努力、すべて水の泡となる」となっています。敗北ははじめから確定しているのです。
悪というものはこのようにふるまうのだということをリアルに描いてみせたという意味では、非常に意義深い児童文学ではあります。物語的なカタルシスはほとんどありませんが、それも現実の厳しさをそのまま描いたのだと受け止めるべきでしょう。
せめてこれは外国の昔の話なのだと思えればいいのですが、富裕層と貧困層の分断などは、残念ながらまさに現代の日本で進行しつつある問題です。それを考えるとますます気分が暗くなってきます。まったく、なんて小説を読ませてくれたんだ。

『ジョージと秘密のメリッサ』(アレックス・ジーノ)

ジョージと秘密のメリッサ

ジョージと秘密のメリッサ

クローゼットに秘密を隠している子どもの物語です。主人公が隠しているのは、女子向けのファッション雑誌。主人公はみんなから男子だと思われていますが、自分も雑誌に出ている女の子のような格好をして、その仲間に加わりたいと願っていました。学校でおこなう『シャーロットのおくりもの』の演劇でシャーロット役を勝ち取ることで自分が女であることを周囲に認めさせようとしますが、さまざまな困難にぶちあたります。
シャーロットのおくりもの

シャーロットのおくりもの

多数派の善意は少数派にとっては暴力でしかないということが、この作品を読むとよくわかります。学校の先生は「あなたは、きっとすてきな男性になれるわ」と、感受性の鋭い主人公を褒めます。母親は子どもがなにか悩みを抱えているらしいことを察して相談にのろうとしますが、「なにがあっても、ママに話してだいじょうぶよ。(中略)あなたはいつまでも、わたしのかわいい息子よ。それは絶対変わらないわ」と、事情を知っている読者からみれば最悪の発言をしてしまいます。
がさつなようで気のいい兄のスコットや、女子の親友のケリーの存在は救いになっていますが、それでもなかなか本質的な問題は理解されません。スコットは主人公が隠しているのは"やらしい雑誌"だと早合点して、母親には秘密にすると約束します。ケリーは悩んでいる主人公の助けになると思ってフェミニズムの話をしてあげますが、これも的外れです。
主人公は自分が女であるということには迷いを持っておらず、医術的な措置を受けたいというはっきりとした希望を持っています。物語の序盤でテレビに出ている女性の「わたしはトランスジェンダーの女性で、わたしの足のあいだになにがあるかは、わたしとわたしの恋人以外の人には関係ない」という発言を出すことで、作品のPC的立場も早い段階で明確にしています。そのため、いかに自分が自分であるということを身近な人たちに認めさせるかというところに、物語の焦点は絞られます。あれもこれもやろうとせず、シンプルに物語の道筋を打ち出したことが、作品の成功の大きな要因になっています。
小説ならではの演出で主人公を祝福したラストシーンは、解放感に満ちていて読者の心を強く揺さぶります。
このようなテーマの優れた児童文学はまだまだ少ないので、小中高の学校図書館にはぜひ入れておいてもらいたいです。

『消えたスクールバス』(ダグマール・ガーリン)

消えたスクールバス (世界のよみもの)

消えたスクールバス (世界のよみもの)

1977年に刊行された西ドイツの児童文学。邦訳は1982年に佑学社から刊行されました。中部フランスの、10軒ほどしか民家がない小さな村プルメリ村で、子どもたちを町の学校に連れて行くスクールバスが行方不明になるという集団失踪事件が起こります。
物語は、どうということのない村の夜明けの場面から始まります。陶器工場で働く男クサビエがいちばんに目を覚まして家の外に出て子どもの学費のことに思いをはせつつ、村の厄介者バルタザールが自転車で朝霧に包まれた橋を渡っていく様子を見送るといった、生活感のある描写に引きこまれていきます。しかし、村の人間が大人も子どももダメ人間クズ人間ばかりだということがすぐに明らかになり、読者のプルメリ村に対する印象は、絶対行きたくない限界集落だというところに落ち着きます。
村に住んでいる外部の人間は小学校の先生だけでした。この先生は村に知性のある人間は自分だけだと思い上がっていて、都会の学校に異動したいと切望していましたが、村の人間が教育委員会に先生を残すよう嘆願書を毎年出すので異動できず、10年以上不本意な生活をしていました。村の人間は村の人間で、別に先生を尊敬しているわけではなく都合のいい飼い犬扱いしていて、逆らうと村の商店で食料を調達できないようにして兵糧攻めで従えるという鬼畜な所業をします。
こんな村の夏休み明け、数人の子どもが上級学校に上がって、スクールバス通学をすることになります。すると村の学校の生徒数が激減し、先生はこれ幸いと勝手に廃校を宣言してしまいます。学校がなくなると子どもたちが暇になり、好き勝手に遊び始めます。すると……と、玉突き事故方式・風が吹けば桶屋が儲かる方式で騒動が拡大し、スクールバス失踪という大事件に発展していきます。
人間の描き方・コミュニティの描き方・社会の描き方がシニカルで辛辣で、読み応えの作品でした。

『ぼくが消えないうちに』(A.F.ハロルド)

ぼくが消えないうちに (ポプラせかいの文学)

ぼくが消えないうちに (ポプラせかいの文学)

主人公のラジャーは、アマンダという少女の空想上の友だちです。ある日アマンダがいなくなってしまったために、ラジャーはまもなく消えてしまう運命に陥ってしまいます。大切なアマンダと再会するため、ラジャーは冒険を始めます。
このタイトルで、イマジナリーな友だちが消えてしまうというあらすじなので、しめっぽい展開が予想されます。もちろんそういう要素もありますし、レイゾウコのエピソードなどは泣かせます。しかし、この作品の魅力の重点はそこではなく、子どもの空想の世界の楽しさをみごとに再現しているところにあります。
洋服ダンスのなかから現れる自分だけの友だち。木の下に掘った穴が宇宙船になったり、熱気球のゴンドラになったりといった空想遊びの愉悦。アマンダと別れたあとも、オッドアイの不思議な猫に導かれてパートナーを失った〈みえないお友だち〉が集まる図書館に行き、ピンクの恐竜やテディ・ベアや蓄音機に手足が生えた化け物などと仲間になるといった、ワクワクする展開が続きます。さまざまなアトラクションでもてなしてくれる遊園地のような作品になっています。
ところで、遊園地に欠かせないアトラクションといえば、ホラーハウスです。この遊園地の一番のみどころは、実はホラーハウスなのです。
はげ頭にサングラス・赤ヒゲの男と、白いブラウスにくすんだ色のジャンパースカート姿の黒髪の少女、〈みえないお友だち〉を捕食するふたり組の化け物が現れて、物語を引っかき回してくれます。とくに、いつも無表情な黒髪少女の威圧感がおそろしく、雷で停電しているときに稲妻の光とともに突然出現したり、「海藻を丸めたような冷たい手で」つかんできて「死の息」を吹きかけてきたりと、身の毛もよだつ場面がたくさん。こいつからは絶対に逃げ切れそうにないという絶望感を味わわせてくれます。
挿絵はエミリー・グラヴェットが担当しています。ケイト・グリーナウェイ賞を2度も受賞しているだけあって、物語の流れにうまく溶けあったイラスト・デザインの妙は特筆に値します。黒髪少女の恐怖感を盛り上げるために効果的に配置された闇が、読者の肝を冷やしてくれます。