『タイコたたきの夢』(ライナー・チムニク)

以前はパロル舎から出ていましたが、当然現在は入手不可。徳間書店によるチムニク復刊プロジェクト第2弾として、ふたたび世に出ました。
ある日ある町で、ひとりの男がタイコを叩きながら叫び出しました。

ゆこう どこかにあるはずだ
もっとよいくに よいくらし!

町の人々は男を捕らえようとしますが、タイコたたきは見つかりません。誰もタイコたたきの顔を思い出すことができず、「あいつ、顔なんてなかったぜ」という者さえ出る始末。やがてタイコたたきは疫病か呪いのように増殖し、タイコたたきたちは町の城壁から外の世界へとびだしていき、新天地を求めて当てのない旅を続けます。
はたしてタイコたたきたちとは何者なのでしょうか。善か悪かでいえば、少なくとも善の側にあるとはいいがたいようです。行った先々で戦闘や破壊、略奪を繰り返していますから。ただ、チムニクの独特の絵柄で描かれるタイコたたきたちの活動は、悪と断じるにはあまりにも魅力的です。人数の力と角材だけで兵器をつくったり巨大な船を建造したりする様子のパワフルさには圧倒されます。変革を求める人の欲望とそれを実現するための営み、善悪を超越した人間の業が描かれています。

『学校へ行こう ちゃんとりん』(いとうひろし)

学校へ行こう ちゃんとりん

学校へ行こう ちゃんとりん

毎日 毎日、決まった時間に学校へ行く。これじゃあ、ありよりずっとはたらきもんよ。毎日 毎日、学校 学校。

現実逃避したいと考えるとき、人はどの方向を向くのか。それは、その人の特性やその時の状況によって変わるでしょう。この物語に登場する小3の女子ふたりは、上を向く派と下を向く派、正反対のタイプだったようです。
ひとりの女子は登校中になにげなくありを追いかけてしまいますが、思い直していつも一緒に登校しているもうひとりの女子を迎えに行きます。ふたりで話しているうちになんとなく倦怠感がやってきて、学校に行くのが憂鬱になってきました。もうひとりの女子は、ユーフォーにさらわれて学校をサボろうと提案し、奇妙な歌と踊りでユーフォーを呼び出そうとします。
ふたりは、空と地面のふたつの方向を見ています。人がふたりいれば、そこには現状に引きとどめる力も生まれるし、むしろ非日常への推進力にもなったりもします。この作品のそれぞれのページで起こっていることは、方向とそこへ向く力を表す矢印で簡潔に説明することもできます。
この作品はイラストとふきだし内の会話文でほとんど成り立っています。会話のなかでふたりの感情が動き、矢印が変化する様子を味わうのがこの作品の楽しみ方です。ふたりは特別深刻な悩みを持っているわけではありません。でも、一方がいつももう一方を迎えに行く立場にいることに不満を累積させていたり、現実逃避への温度差でふたりの性格の違いが露わになったりと、そこにある感情はささやかにみえるものの軽視はできません。
イラストも会話も軽やかですが、油断していると深い落とし穴にはまってしまいそうな底知れなさを感じさせる作品です。

至高の百合児童文学作家・令丈ヒロ子を見よ

SFマガジン 2019年 02 月号

SFマガジン 2019年 02 月号

2018年の児童文学界の最大の事件は、劇場版『若おかみは小学生!』の大ヒットなどによって令丈ヒロ子が百合界に「発見」されたことでした。劇場版及びTVアニメ版の『若おかみは小学生!』は世界唯一の百合専門誌で3回も取り上げられ、「百合と異界は児童小説の伝統」をはじめとする令丈ヒロ子twitter上での発言も話題になり、年末刊行のS-Fマガジン百合特集号に令丈ヒロ子がエッセイを寄稿するというかたちでオチがつきました。
これは絶好の布教の機会なので、令丈百合児童文学の数々を紹介しようと思います。
好きって、こわい?

好きって、こわい?

令丈ヒロ子がガチの百合作家であることを手っ取り早く理解するためには、ホラーアンソロジー『好きって、こわい?』所収の短編「いちごジャムが好き。」を読むのが一番です。
自分に自信を持てないまゆらは、なぜか超美少女のミゼに気に入られています。まゆらはモジャ髪でミゼが黒髪ストレートなので、イラスト上はくみれいがいちゃついているように見えます。ミゼはまゆらの隠された能力を開発するためという名目で、いちごジャムを持ってお風呂に入り妄想をするようにという意味不明な命令を与えます。
まゆらは素直に情感たっぷりに同性への愛を表現するタイプで、お風呂ではお湯に落ちたいちごジャムをミゼに見立てて「大好きなミゼが、お湯にとけて、あたしを温めてくれている」とか「ミゼがお湯になって、あたしを包んでくれている」とか幸福な妄想を繰り広げます。
その場面からギャグなのかホラーなのかわからない意外なオチに導かれるのですが、結果的にふたりはある意味添い遂げることになるので、恋愛物語としてはたぶんハッピーエンドです。
メニメニハート (講談社青い鳥文庫)

メニメニハート (講談社青い鳥文庫)

現時点での令丈百合児童文学の最高傑作は、入れ替わりSFの『メニメニハート』です。『君の名は。』のヒット以前は、映画『転校生』及びその原作である山中恒の『おれがあいつてあいつがおれで』が男女入れ替わりものでもっともメジャーな作品でした。令丈ヒロ子山中恒の弟子なので、弟子の令丈ヒロ子が入れ替わりSFを百合に変換し師匠へオマージュとして捧げたのが、この『メニメニハート』だということになります。
入れ替わるのは堅物女子のマジ子とゆるふわ嘘つき女子のサギノ、小学5年生の女子ふたりです。ふたりはお互いに憧れすぎるあまり、心身が徐々に入れ替わってしまいます。
入れ替わりものには、自分が自分でなくなってしまうという恐怖がつきものです。しかしマジ子とサギノは、大好きな相手になれるということにこの上ない喜びも感じてしまうのです。恐怖と喜びの相互作用でエモさは極限まで高まっていきます。
ダブル・ハート

ダブル・ハート

入院中の由宇の前に、自分とそっくりな女子が現れます。名門女子中に通っているまじめ人間の自分とは正反対の奔放な性格の女子に振り回され、由宇の生活は混乱していきます。
由宇は女子の正体を生まれてくる前に死んでしまった双子の妹の幽霊だと思っていました。しかしその正体は由宇自身のドッペル的なものであることがわかってきます。ということで、自己愛分身百合という変則的な作品になります。
他人をゆるすことよりも自分をゆるすことの方が難しいもので、とことん自分を向き合うことを求めるテーマ性の高い児童文学となっています。偶然今期のアニメでは『SSSS.GRIDMAN』の六アカ、『あかねさす少女』の明日架×∞と、趣向は違えどある種の分身百合が流行っていたので、このタイミングでこの作品を読むのもおもしろいのではないでしょうか。2006年から2008年にかけて全3巻で刊行、イラストはあの岸田メル先生です。憧れの名門女子校に入学したコヨリは、DEBUはやせるまで他の生徒から隔離するという人権侵害にもほどがある学校の方針により、ダイエット寮に収容されます。苦労人女子のふな子、元子役で美少女の面影を残す姫霞とともに、地獄の減量生活を強いられることになります。
この作品の女子校設定はマリみて的な学園百合のパロディでほとんどギャグになっているので、実はそれほど女子と女子の感情はありません。ただし、2巻で大暴れする百合サークルクラッシャーの誠子さん、こいつだけは本物です。お笑い芸人志望の中学2年生すいすいは、昭和アイドルのような奇抜なファッションをした転校生のるりりに理想の「ボケのお姫様」性を見出し熱烈に勧誘、ふたりで漫才コンビを組んで活動を始めます。
すいすいははじめはるりりのことを都合のいい優秀な相方だと思っていましたが、一緒に過ごしていくうちに「ボケのお姫様」だけではないるりりのさまざまな側面を発見していきます。そして、るりりの正体がわからなくなればなるほど、愛しさが募ってくるのです。ただの相方を次第に女の子として意識していくすいすいの感情の変化がみどころです。
るりりのことがわかってくると、あまり知りたくなかった家庭状況なんかもみえてきます。まさかの『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』コースかと読者を心配させるのが、この作品の罪深いところです。
かえたい二人

かえたい二人

SFオタク女子と外見悪魔内面おっとりお嬢様カップルの物語。SFオタクの穂木は思いがけない幸運でクラスのリア充グループとお近づきになれて、階級上昇のチャンスを得ます。悪魔メイクではぐれ者になっているが根は超絶善人の陽菜は、穂木がリア充になれるように惜しみなく協力します。
陽菜と仲がいいことがバレると階級上昇はできませんから、ふたりの関係は秘密ということになります。二重生活を献身的に支える陽菜のけなげなことけなげなこと。しかし後半はスクールカーストとの戦いを余儀なくされることになり、試練のなかでふたりの絆はさらに輝きます。さて、「若おかみは小学生!」シリーズですが、これは長く続いた人気シリーズなだけに百合派ヘテロ派BL派が激しく抗争している危険地帯になっているので、実はあまり触れたくありません。特に主人公カプに言及すると余計な敵をつくることになってしまうので、ここでは議論の余地のない大人の百合カプを紹介します。14巻と19巻に登場する宿泊客の陸谷さんと出水さんです。
このふたりは春の屋側には落ち度のないアレルギー騒ぎで揉め事を起こしたので、主人公サイドからみればかなり厄介なモンスタークレーマーでした。とはいえ、料理を媒介として絆を結ぶのはシリーズの黄金パターン。幼いころから仲がよかったのにお互いを思いやりすぎるがために素直に振る舞えないふたりの心を思い出の料理が解きほぐす展開は、この黄金パターンがもっとも美しいかたちで機能したケースになっています。
児童文学である令丈作品に登場する百合カプはほとんど小学生同士か中学生同士の組み合わせになっているので、大人百合はレアです。長い時間のなかで蓄積されたふたりの激重感情は、他のカップルのとはちょっと迫力が違います。最後に紹介するのは、「若おかみは小学生!」のスピンオフシリーズ。おっこのいとこで壊滅的に常識が欠如している小学5女子のことりと、地元の病院の娘で外ヅラはいいのに性格がねじくれている鞠香のふたりがアイドル活動をする話です。花の湯温泉を主な舞台にした「温泉アイドルは小学生!」は全3巻。ふたりが芸能スクールに通うようになり主な舞台が東京に変わってからはシリーズ名が「アイドル・ことまり!」になり、今年の1月に全3巻で完結しました。
ことまりは性格が正反対でしかも両方とも攻撃的なタイプなので、シリーズの基本的な楽しみ方はふたりのケンカップル漫才を眺めることとなります。ただし、本格的な芸能活動が始まると、芸能界のシビアさを思い知らされるできごとも発生します。コンビの一方だけがスカウトされるという最大の危機を迎えることになることまり、この逆境から物語は熱く熱く燃え上がっていきます。
なお、「若おかみは小学生!」との絡みはおっこらがちょい役として出てくる程度で物語の本筋に関わるようなものはほぼないので、若おかみシリーズを知らなくても読むのに支障はありません。

『お江戸怪談時間旅行』(楠木誠一郎)

お江戸怪談時間旅行

お江戸怪談時間旅行

小学6年生の陽奈と翔は、寛政12年の石川島・人足寄場にタイムスリップしてしまいます。そこでは、ふたりより先にタイムスリップした現代の女性研究者が持ち込んだ新発明の筋肉増強剤のせいでゾンビのようになった人々が暴れ回っており、大パニックになっていました。はたして時間旅行者達は、この危機を乗り越えられるのか。
なんでタイムスリップしたのか、なんで筋肉増強剤でゾンビ化するのか、そんな細かいことは気にする必要はありません。お江戸にゾンビを発生させたらおもしろかろうと著者が思ってしまったから書いた、それだけでよいのです。
いい意味でB級な作品で、ゾンビもののお約束を忠実に守っていて読者の期待を裏切ることはありません。第1部のラストなんか、映画だったらエンドクレジット後にこういう場面が出てくるだろうなと予想されるとおりで、待ってましたと歓呼の声を上げたくなります。
ただし、物語の展開はB級なのですが、著者が楠木誠一郎なので時代考証は超一流です。人足寄場という出発点の舞台設定も秀逸ですし、舞台が江戸に拡大すると町木戸をバリケードとして利用したり、最終的な籠城ポイントをあそこにしたりと、ステージの設定がそれぞれ説得力が高く、江戸は最初から対ゾンビ防衛都市として設計されていたかのように錯覚してしまいます。
専門知識を持った人が大人げなく本気で遊んでいる様子を眺めさせてもらうのは楽しいですね。

『わたしの家はおばけ屋敷』(山中恒)

わたしの家はおばけ屋敷 (角川つばさ文庫)

わたしの家はおばけ屋敷 (角川つばさ文庫)

幽霊屋敷で魔女と (山中恒よみもの文庫)

幽霊屋敷で魔女と (山中恒よみもの文庫)

1997年に理論社から刊行された『幽霊屋敷で魔女と』が、装いを新たに角川つばさ文庫に登場。
小学4年生の宮森マイは、母を早くに亡くし、父も多忙でひとり暮らしをしていたため、ずっとおばあちゃんとふたりで暮らしていました。しかしおばあちゃんが亡くなり、ちょうど再婚することになっていた父と新生活を送ることになります。新しい母はヒロコという美人で、連れ子のシュウも母似のイケメン。でも、ヒロコは魔女ではないかという疑惑が持ち上がってきました。おばあちゃんの幽霊に守られながらも、マイの日常は不穏なものになっていきます。
生首が飛んだりステッキで額をかち割ったりと、派手に血しぶきの飛ぶホラーになっています。しかしホラーとしてのこの作品の主眼はそこではありません。それよりも、サイコホラーとしてなんとも薄気味悪い作品になっているところが、この作品の魅力です。結末の気持ち悪さは最高です。
魔女は直接的な暴力よりも、人心を操るいやらしい悪行を得意としています。シュウはマイに、ヒロコが真夜中に「私は魔女なのよ」とささやくという奇行をしていたことを告白します。ヒロコはヒロコで、シュウのいないときにマイにシュウはそういう妄想を話すような変な子だけど許してやってくれと吹き込みます。また、マイにクラスメイトが本屋で万引きをしている幻覚を見せたかと思えば、シュウにはマイが万引きをする幻覚を見せたりします。巧みに人心を惑わる魔女の悪辣さは、相当なものです。サイコホラーの手法を使いながらも、子どもたちの感情の行き違いの描き方は90年代の児童文学・YAの空気感をうまくつかんでいるように思えます。90年代にはすでに大御所であった山中恒が平然とこのような斬新な児童文学を出していたということ。山中恒がいかに偉大な作家であるかということがよくわかります。
『ママはおばけだって! 』や『頭のさきと足のさき』など、山中作品には子どもを支配し飲み込む不気味な母親が登場する作品群があります。『わたしの家はおばけ屋敷』も、その系譜のひとつと捉えてよいでしょう。ただ、継子という少し離れた位置から母-息子関係を眺めているというところは特異です。こうした観点からも、重要な作品であるといえそうです。

『その年、わたしは嘘をおぼえた』(ローレン・ウォーク)

その年、わたしは嘘をおぼえた

その年、わたしは嘘をおぼえた

  • 作者: ローレンウォーク,Lauren Wolk,中井はるの,中井川玲子
  • 出版社/メーカー: さえら書房
  • 発売日: 2018/10/25
  • メディア: 単行本
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第二次世界大戦中の1943年、12歳のアナベルは、その年に嘘を覚えました。アナベルの学校に「矯正不可能」ということで田舎送りにされたペティという転校生がやってきます。ペティは学校の小さい子どもたちに赤ん坊のつくりかたを広めるなど、瞬く間に悪影響を与えていきます。ペティは「金持ちの子の名前」をしているアナベルを標的に選び、恐喝から始まって次第に悪事をエスカレートさせていきます。
悪のエスカレートのさせ方がサスペンス性に富んでいて、読ませます。ペディはあるたくらみでアナベルの親友のルースに失明するほどの大けがをさせます。しかも、他の人物を冤罪に陥れ、自分は罪を免れようとします。濡れ衣を着せられたのは、第一次大戦のトラウマで世捨て人のようになっている男性トビー。不幸なトビーが保安官や警察に追い詰められていく展開もサスペンス性が満点です。真実を知るアナベルは、自分とトビーを守るために絶望的な戦いを強いられることになります。
ペティは、巧みに嘘をついて他人を陥れるタイプの邪悪な人間です。そういった悪と戦うためには、被害者も嘘という悪の道具を使わざるをえなくなるという苦い話です。
嘘を武器に戦う女子の物語ということで、昨年の話題作『嘘の木』と比較してみるのもおもしろそうです。両作品には、写真や郵便局など、共通する素材も見受けられます。ただし、『その年、わたしは嘘をおぼえた』でもっとも重要な素材は、『嘘の木』には登場しない当時のある先端テクノロジーです。「機織り機に細い黒ヘビが何匹もついているみたい(p123)」な不気味な機械。やはり、人類に悪と知恵を授けるのはヘビなのです。であるなら、これも『嘘の木』との大きな符合であるといえそうです。
見逃してはならないのは、アナベルは当時のその地域では裕福な立場にあったということです。アナベルは風呂に入る習慣を持つ家庭の子であり、仲良くしていたルースも同様の立場です。アナベルはペティが嫌われ者の男子と仲良くなると、「わたしは前にそっくりなものを見たことがあった。新しい犬が農場に来たときだ」と思います。人間を人間扱いせず畜生扱いするのは由緒正しい差別の作法です。アナベルナチュラルに差別する側の人間なのです。
しかし、その立場でなければ、ペティに対抗するための逆転の策は使えなかったというのが皮肉です。結末を知ってからはじめを読み直すと、ペティがアナベルに金持ちだと因縁をつけてきてアナベルが自分の家庭状況を思い直す場面に重要な伏線が仕込まれていたことがわかります。著者はかなり考えて作品を作りこんでいます。
差別される側から攻撃を受けたら、それなりの対処はせざるを得ません。ただし、それが差別の構造を追認し温存する結果になるのであれば、それはさらに大きな悪となってしまいます。非常に難しい問題に、作品は踏みこもうとしています。
複雑な歴史的背景や当時の生活を物語のなかに取りこんで厚みのある歴史物語とし、ミステリ的なおもしろさも組みこんで娯楽読み物としても成立させている、非常にうまさを感じさせる作品です。著者にとってこれが初の児童書となるそうですが、先が楽しみです。

『マレスケの虹』(森川成美)

マレスケの虹 (Sunnyside Books)

マレスケの虹 (Sunnyside Books)

ハワイの日系二世マレスケの物語。時は1941年で、開戦を控えています
マレスケの名前は乃木希典にちなんでつけられたものですが、「雇い主」が死んだというだけで腹切りをする心情はまったく理解できません。白人の西部劇や恋愛映画は嫌いで、祖父の好むような日本の映画も好きではなく、でもやがて公開される『ダンボ』にはちょっと興味を持っています。日系人がいて、ハワイの人々がいて、ハオレ(白人)もいる、当時の日本人と比べるとはるかに多様性のある環境で育ったマレスケは、そんな感性を持っています。
祖父と父はハワイに移住し、母は写真花嫁としてやってきて、ハワイで生まれたマケスケは親が持たないアメリカの国籍を持っています。現代を生きる読者からみると過酷な環境にみえますが、それでもそこには生活があって子どもはいろいろなことを考えながら育っていくのだということが生き生きと描かれています。
『ダンボ』を鑑賞するところなど、単文を連ねて勢いよく語り手マレスケの感情を追う場面が目立ちます。その手法により、マレスケの声がすんなりと入ってきます。枠を否定し変化を称揚するメッセージも、マレスケの声とともに読者に受け入れられそうです。
この『マレスケの虹』や小手鞠るいの『ある晴れた夏の朝』*1と、今年は日系アメリカ人を主要な題材とした戦争児童文学が登場しました。戦時中日本からもアメリカからも不当な扱いを受けていた日系アメリカ人を取り上げることで戦争児童文学にどのような地平が開けるのか、戦争児童文学史のなかでどのように位置づけることができるのか。このあたりは、識者に活発に議論してもらいたいところです。

*1:小手鞠るいは2017年に一般向けに刊行された『星ちりばめたる旗』でも、同様の題材を扱っている。