『八月のひかり』(中島信子)

八月のひかり

八月のひかり

児童文学に親しんでいる大人がこのタイトルをみると、戦争児童文学なのであろうと予想することでしょう。物語のはじまりは8月6日、市役所の広報スピーカーから「黙祷」の放送が流れます。物語の最後は8月14日で、主人公の美貴はテレビの戦争特別番組を見ます。しかしそれらは物語の後景にすらならず、美貴はそれになんの感慨も抱きません。わたしはこれを「戦後」「戦後児童文学」に対する決別宣言であると受け取りました。戦争を語り伝えることはもちろん大事です。でも、現在の子どもをめぐる状況を考えれば、もっと優先すべきことがあるはずです。
作品の内容を一言で説明するなら、現代の貧困家庭の物語です。子どもの7人に1人は相対的貧困であるとされる現代では、決して特別な環境の物語とはいえません。主人公の美貴は、弟の日記にその日食べたもののことしか書かれていないことに衝撃を受けます。しかし、物語のなかも食べ物の話題で埋め尽くされており、章タイトルもすべて料理の名前になっています。人としての尊厳を奪われるとはどういうことなのかということを、あまりにも直截に描き出してしまっています。

『世界のはての少年』(ジェラルディン・マコックラン)

世界のはての少年

世界のはての少年

三週間後に戦士の岩からもどるころには、マーディナも海にさらわれている。彼女もまた夢だったのかもしれないと思えるほど、あとかたもなく。

カーネギー賞・ガーディアン賞・ウィットブレット賞(現コスタ賞)児童文学部門の三冠作家ジェラルディン・マコックランが2度目のカーネギー賞を獲得した作品の邦訳が登場。ウィットブレット賞受賞作のタイトルが『Not the End of the World』で、この2度目のカーネギー賞受賞作が『Where the World Ends』だという符合も興味深いです。
スコットランドヒルタ島には、夏の数週間集団で〈戦士の岩〉と呼ばれる無人島(というか、岩)に行き海鳥の肉や卵を採集する習慣がありました。ある年にこの役割を担ったのは、3人の男と9人の子どもでした。ところが、約束の日になっても迎えの船が来ません。暖かいうちはなんとか過ごせても、やがて厳しい冬が来ると限界がみえてきます。まるで世界から見捨てられたかのような12人は、厳しいサバイバル生活を強いられます。
この手のサバイバル・閉鎖環境ものでは、怪しい宗教が力を持ってくるのがお約束です。実は世界の終末が来ていて、ここにいる自分たちだけが天使から忘れられてしまったのではないかという憶測が流れます。そこに聖職者を僭称する大人が現れて子どもたちを支配するという暗い展開になります。さらに、この状況下では最悪の秘密を持っている子どもがいたことが露見し、事態はどんどん悪化していきます。
極限状況での人間の醜さを暴き立てる露悪的な要素も、この手の作品では欠かせない要素です。ただしそれよりも、そんな状況でもいかに人間の尊厳を守るかという課題の方が重要です。主人公の少年クイリアムは、ひそかに憧れていた年上の女性マーディナのまねをして、物語の力を使って状況への戦いを挑みます。この力により、作品は夢のように美しい終幕を迎えることになります。

『あやしの保健室 3 学校のジバクレイ』(染谷果子)

あやしの保健室 3 学校のジバクレイ

あやしの保健室 3 学校のジバクレイ

自称新任養護教諭24歳奇野妖乃は、またも子どもたちの「やわらかな心」を狙って悪巧みを繰り返します。今回やってきたのは、来年統廃合を迎える小学校。自分の過ごした学校で卒業することができなくなる5年生には特に不満がたまっていて、妖乃先生のような悪い妖怪には絶好の狩り場になっていました。
今度の学校には〈用務員さん〉と呼ばれる守り神のようなジバクレイがいて、妖乃先生も校舎と児童は傷つけないと約束させられていました。ということは、こいつは約束がなければ平気で破壊活動をするわけですよね。子どもに妖怪アイテムの説明をしてからわざと急用を思い出して席を外してそれを盗ませるなど、今回も妖乃先生は安定して悪い妖怪っぷりを発揮しています。
特におもしろかったのは、第3話の「エンジェルのとなり」。天使のような女子の側にいて引き立て役になっている女子の愛憎入り交じった巨大感情が、妖乃先生の妖怪アイテムによってさらに増幅されてしまいます。
恒例の卒業式の場面では、〈用務員さん〉との対話によって妖乃先生の正体の一端が明らかにされます。学校というシステムは、子どもに競争を強いて異物の排除を促すように設計されています。そこからこぼれ落ちたものを救うには、学校の中に異物を組みこまなければなりません。妖乃先生の行動はある意味で復讐であったことが明かされますが、異物としての妖乃先生の存在は、結果的に多くの子どもの助けになっていました。この逆転現象と、「やわらかな心」を奪うことに失敗しながらも、そこに「わたくし」を入れるという逆転の発想に至った妖乃先生のもくろみは、うまく合致しています。
さて、設定の一端は明かされましたが、〈木の民〉〈草の民〉・妖乃先生の背負っている〈重いもの〉など、新たな謎も提示されました。今後の展開が気になるところです。

『本気でやれば、なんでもできる! ?』(ジョン・ヨーマン)

本気でやれば、なんでもできる! ? (児童書)

本気でやれば、なんでもできる! ? (児童書)

1961年のイギリス児童文学の初邦訳が登場。クェンティン・ブレイクのイラストにマッチした、ユーモラスな作品になっていました。
図工の時間の工作がうまくいかず、先生から「いっしょうけんめいやれば、できないことなんてひとつもない」と励ましを受けたビリーですが、友だちからエベレストに登ったり飛行機で最高速度を出したりはできないだろうとからかわれます。それは可能であると反論すると、頭に角を生やすとこはできないだろうと言われ、ビリーは角を生やしてみせると宣言してしまいます。
努力の価値を称揚しようというお説教ではなく、特になんの苦労もなく角が生えてしまうというナンセンスを楽しむタイプの作品です。ビリーにとっては、角が生えるのはこの上なく誇らしいこと。角が生えかけて病院に連れていかれると、医者から動物病院に行くよう指示されました。親は困惑しますが、ビリーは嬉しくてたまりません。このギャップがおもしろいです。
オチもシンプルで洒落ていて秀逸。実にイギリス児童文学らしい作品でした。

『ネッシーはいることにする』(長薗安浩)

ネッシーはいることにする

ネッシーはいることにする

2008年に刊行された『あたらしい図鑑』の続編が登場。『あたらしい図鑑』は、13歳の少年が田村隆一がモデルと思われる巨漢の詩人に出会い、言葉のコレクションを始めるという物語でした。これはメジャー出版社が文庫化して「○○文庫 夏の100冊」に入れて大々的に布教すべき傑作で、文系中学生必読の書となっています。
ネッシーはいることにする』は、主人公の五十嵐純の中学校生活最後の夏の物語です。詩人村田周平の三回忌に誘われ、淡い恋心を抱いていたひまわりワンピースの高身長女子との再会もあり、さまざまな出来事が駆け巡っていきます。
『あたらしい図鑑』は言葉によって世界を知る話で、どちらかというと抽象的なものになっていました。『ネッシーはいることにする』では世界をみる解像度が上がり、社会へのコミットを深めていくようになります。ベトナムに単身赴任している父親からベトナム戦争に関わる衝撃的な写真をメールで送られて吐き気をもよおしてしまったりと、社会との関わりは暴力性を帯びる要素ももたらします。
田村隆一ベトナム戦争といった素材をみるに、このシリーズが著者のノスタルジーの産物であるという側面を持っていることは確実でしょう。ただし、舞台となっているのは現代です。肌の黒い日本人のスポーツ選手が活躍していたり、親友がレインボーな運動に関わったりしています。そこにややちぐはぐな印象が持たれることは否めません。しかしそれも著者の知識や経験の蓄積の発露ではあるので、それを若い読者に向けて語ることには意味はあるはずです。

『ぼくたちは卵のなかにいた』(石井睦美)

卵の世界とその外の世界を舞台とするわけのわからない児童文学。卵の世界の住人は、13歳の誕生日に外の世界に出るかどうかの決断を迫られます。リョウは出る決断をしますが、その後過酷な試練を体験することになります。
卵というものの象徴性を考えると、常識的にはそこから出ることが成長であり正しい決断なのではないかと思われます。デミアン的には雛鳥は卵の殻を破って神の元に飛ばなければなりませんし、谷山浩子的な卵の世界で年老い死んで腐り「眠ったまま幕が降りればいいと」願うような人生はあまりハッピーにはみえません。
ところが石井睦美の卵の世界は、別に出ることを絶対の正解とはしていないようです。リョウの両親は卵の世界で普通に大人になって親になっていますし、その生き方を否定する根拠は作中のどこにも出てきません。むしろ、卵の世界を出た後の憎しみの試練が苛烈すぎるので、出ない方が正解なのではないかと思わされます。リョウに水を与えてくれる人語を解するペリカンがかわいいのだけが救いですが、そのペリカンも、ああ、そういう感じなんだ……という秘密を持っていました。
この作品が「ぼく(リョウ)」が「きみ」に語りかけるという形式になっているのも、よくわかりません。卵の世界から出る人間はそれまでの人生を1冊の本に書き残して図書館に保存するしきたりがあるという設定はありますが、「ぼく」は卵の世界を出た後も「きみ」に語りかけているので、この作品は図書館の本というわけではないようです。
この作品や『つくえの下のとおい国』などをみると、最近の石井睦美は寓話っぽいいわゆる児童文学的なもののパスティーシュをやろうとしているのではないかとも思われますが、もう少し今後の作品をみてみないと確証は持てません。ということで、特にわたしに解説できることはないのですが、少なくともわけのわからない児童文学が大好物なわたしにはそれなりに楽しめる作品であったということだけ報告しておきます。

『夏に泳ぐ緑のクジラ』(村上しいこ)

夏に泳ぐ緑のクジラ (創作児童読物)

夏に泳ぐ緑のクジラ (創作児童読物)

タイトルやカバーイラストは一見さわやかっぽいのに……。
主人公のお京は中三の夏、母親とともに祖母の暮らす島に行きました。母親の目的は、島に娘を捨てることでした。父親はFXで有り金全部溶かした感じになってどうにかなってしまい、母親は鬱病でとてもお京の面倒をみられるような状態ではありません。ところが祖母も問題でした。祖母は母親一人を悪者にすることで家庭内の秩序を保っていた暴君で母親の精神を病ませた元凶。さらに島には、子どもの孤独につけこんで近づいて脳みそを食べる自称妖精の「つちんこ」とやらが出没していました。どこにも夢も希望もありません。
この作品に限らず村上しいこYAに登場する子どもは、ひたすらシバかれ強くなれと自助努力を求められます。村上しいこYA世界には、共助や公助といった概念がほとんどみられません。「つちんこ」のまなざしの先にあるような、寒々とした世界が広がっています。この作品で描かれている人心の荒廃や貧困はこの国の現実の一面ではあるので、そういう現実を突きつける作品も必要でしょう。
ただし、村上しいこYAの過剰に自助努力を求める姿勢は、失敗すれば自業自得という自己責任論に陥りそうな危険性が感じられます。子どもに成長を求めることで手一杯になり、社会の矛盾を変革しようという方向には目が向けられにくくなっています。こうした村上しいこYAの視野の狭さには、懸念を抱いています。