『秘密のノート』(ジョー・コットリル)

秘密のノート: JELLY (児童単行本)

秘密のノート: JELLY (児童単行本)

ジェリーは、モノマネが得意な女子。ギャグギャラとしてクラス内の地位を確立しています。そんな彼女ですが、人には言えない悩みをいくつも抱えていました。太っていて男子から「セイウチ」とからかわれること、美人の母親にクズみたいな男ばかりが寄ってくること、モラハラ体質の祖父のこと。ジェリーはそんな悩みを詩にして、秘密のノートにしたためていました。
自虐もまじえながらも、力強さを内包したジェリーの詩が魅力的です。その詩が母親の新しいボーイフレンドのレノンに見られ、才能を褒められそれを表に出すように励まされたことから、ジェリーの運命は変化しはじめます。
レノンは、いままでの母親のボーイフレンドにはいなかったタイプの超絶善人でした。ジェリーに将来ボーイフレンドができるだろうと母親が話すと「あるいは、女性」と付け加えたり、初潮を迎えたジェリーに適切な対応をしたり。ジェリーの周囲にはいなかった進歩的な男性です。
ただし、レノンのような正義の人は、現状に甘んじている人間にはストレスを与えます。正義の人は変革という選択肢の存在を示唆してしまうからです。しかし、一度勇気を出せばいまより楽な生き方をできるようになるかもしれません。そんな勇気をさわやかに描いた、前向きな話でした。

『団地のコトリ』(八束澄子)

団地のコトリ (teens’best selections 54)

団地のコトリ (teens’best selections 54)

主人公の美月は、団地に住む中学3年生。母親とのふたり暮らしは経済的に楽ではなく進路にも不安を抱えていましたが、バレーボールに打ちこんでいてそれなりに充実した生活を送っていました。団地には、かつて自治会長を務め団地内の数々の問題を解決して「団地のヒーロー」と呼ばれていた柴田のじいちゃんという老人が住んでいました。柴田のじいちゃんは妻を亡くしてから人格が変わりすっかり落ちこんでしまってひきこもりのようになっていました。美月はある日、ひとり暮らしのはずの柴田のじいちゃんの部屋に女の子の気配があるのを発見しました。その子陽菜は「居所不明児童」、つまり福祉や教育や医療の網から抜け落ちた子どもでした。柴田のじいちゃんは陽菜とその母親をひそかにかくまっていましたが、そんな暮らしが長く続くはずがなく、物語は悲劇に向かって進みます。
タイトルにある「コトリ」には、少なくとも三重の意味が付与されているように思われます。ひとつは、「小鳥」。この言葉には籠の鳥、囚われ人というイメージがつきまといます。陽菜は小鳥を飼っている美月のことを「コトリちゃん」と呼んでいました。美月は最終的に他人に助けを求める力を得たので、これは鳥籠からの解放であると受け取ることができます。しかし美月も「コトリ」ですが、団地の一室に囚われている陽菜の方が「コトリ」のイメージに近いです。
「コトリ」にこめられたふたつ目の意味は、「子取り」です。養育する能力がないのに陽菜を児童養護施設から引き取ってしまった母親は、子ども側からみれば加害者です。また、母娘をかくまった柴田のじいちゃんの行動も美談とはとれません。彼にはふたりを公的な支援につなぐだけの知識も能力もあったはずなのに、それを怠ったのは重大な過失であるといえます。柴田のじいちゃんも子ども側からみれば加害者であり、「子取り」なのです。
しかし、母親も柴田のじいちゃんも弱者側の人間で、加害者と断じて責めるのは酷なようにも思えます。ここで問題になってくるのが、「コトリ」の三番目の意味です。「コトリ」の三番目の意味を推測するヒントとなるのは、カバーの題字です。「団地の」までが縦書きで「コトリ」は横書きとなっています。これが示唆しているのは、「コトリ」は人が静かに倒れて横たわってしまうことを表す擬音だということです。
老いと孤独によって生活能力や判断力が衰えてしまった柴田のじいちゃん、さらに生活能力が低く、精神疾患か軽い知的障害を持っている可能性も考慮に入れてケアの方向性を考える必要のある母親。こういった人々が「コトリ」と倒れ、自力で立ち上がれなくなったときには、公的な福祉が救うべきです。しかし、現政権が堂々と公助の放棄を宣言したことからも明らかなように、この国では弱者のためのセーフティーネットは脆弱なものになっています。
結局のところ結論は政治が悪いとしかいいようがないのですが、タイトルに何重もの意味を持たせて現状を描いたことには意味があります。今の時代に必要な作品であるということは間違いないでしょう。

『雨女とホームラン』(吉野万理子)

雨女とホームラン

雨女とホームラン

占いや迷信をめぐる連作短編集。占いが好きで路地にいる占い師に格安の1000円で占いをしてもらって大喜びする野球少年の話だったり、霊感アピールして人の気を引こうとする女子の話、あるおばさんが応援に来ると試合に負けるというジンクスで右往左往する野球チームの話などが語られます。
反オカルト児童文学ということで、藤野恵美の「七時間目」シリーズや渡辺仙州の「封魔鬼譚」シリーズの系譜に位置づけられます。問題の掘り下げや娯楽性の面では、先行作に及びません。ただし、吉野万理子の長所はいい意味でのゲスさ。愚かな差別者の心理をトレースするのがうまく、悪の描写には迫力があります。
この作品で起こる2番目にひどい出来事は、雨女であると噂される女子をクラス中で追いつめて、自主的に遠足を休むように仕向けた事件です。この事件を扇動した男子は、自分のしたことは合理的でみんなのためになったのだと信じて疑いません。差別とは善意によって生み出されるものなのだということを実にいやらしく描いています。こういった露悪性が吉野万理子の持ち味で、この作品でも遺憾なく発揮されています。
そして、この作品の最悪は、1000円占い師の正体が明かされるオチです。これで小学生から1000円巻き上げるのはまさに悪魔の所業。この作品の登場人物で最も邪悪なのはこの占い師であると断言できます。

『兄の名は、ジェシカ 』(ジョン・ボイン)

サムの兄のジェイソンは、スポーツマンでみんなの人気者。難読症のサムのために本を読み聞かせてくれるという優しい面も持っていて、サムにとっては自慢の兄でした。ところがある日、ジェイソンが自分は「おまえの兄さんじゃない。ほんとうは、姉さんなんだと思う」と打ち明けてから、サムの世界は一変します。サムをはじめ家族は誰もジェイソンがトランス女性であることを受け入れることができず、ジェイソンは孤立を深めていきます。
珍しくないテーマの作品ですが、この作品の特色は誇張された設定によりブラック寄りのユーモアも交えて状況を描いている点にあります。誇張のひとつは、母親が次期首相候補と目されるほどの有力な政治家であるという設定です。母親は排外主義者から熱烈な支持を受けるタイプの政治家で、当然性的マイノリティに対する見解も保守的です。このことが世間に知られると、支持層から見放されるおそれがあります。母親は、このようなケースの対処法は催眠療法や電気ショックだと信じていました。いや、いまどきその認識はギャグではないかと思われるくらいですが、こういった誇張は物語の深刻性を薄める方にも濃くする方にもうまくはたらいています。
もうひとつの誇張は、語り手のサムの性格のクズさです。終盤に発覚するサムのクズ行動は、底ではありません。サムのクズさの底の底は最後の最後に発覚するので、読者はこいつが相応の報いを受けますようにと願いながら本を閉じることになります。

『雷のあとに』(中山聖子)

雷のあとに (文研じゅべにーる)

雷のあとに (文研じゅべにーる)

これまたいやな感じの毒親児童文学が出てきました。5年生の睦子が、2年生の時に自分の名前の由来を調べる課題を出されたことを思い出すエピソードから物語は始まります。母が語るには、兄の貴良と仲良く育ってほしかったからということで、まるで自分には兄の付属品としての価値しかないかのように思わされてしまいます。とにかくこの母親は支配的で自分の言いたいことを一方的にまくしたてるくせに言葉が足りないというコミュニケーションが不可能なタイプで、母親の所業をみているとどんどん気分が落ち込んできます。
そんな睦子でしたが、亡くなったおじのハルおじさんの家を待避場所としていました。ハルおじさんは建築士をしていて、家には住宅の模型がたくさんあり、睦子はそれを眺めて過ごしていました。皮肉なことに、浮世の義理で睦子の家の設計はハルおじさんに依頼することはできませんでした。模型を眺める睦子は、自分には得られない幸福な家庭のモデルを見せられることにもなるわけで、これはなかなか酷な状況でもあります。当然、このアジールもやがて奪われることになります。母親は防犯上の都合という大人の理屈ではまあまあ正当性のある根拠を持ち出し、睦子を追い出そうとします。
さて、非常に重苦しい話なのですが、作品は地道な改善策を探ろうとします。自分を「真面目」と評されることを嫌がっていた睦子は、辞書で「真面目」の意味を引き、そこには本来ポジティブな意味しかないことを発見します。ささやかな発見ではありますが、この発見による世界の見方の変化は劇的です。また、兄の貴良による母親を「前向きにあきらめる」という選択も、地味ながら世界を大きく読み替える力強いものになっています。この地に足のついたところが、この作品の美点です。

『令夢の世界はスリップする 赤い夢へようこそ -前奏曲-』(はやみねかおる)

すべてのはやみね赤い夢ワールドの風呂敷を畳むというふれこみの新シリーズ。多くのファンは半信半疑で手に取ることになるでしょうが、はじめの登場人物一覧をみるとマチトム・クイーン・ジョーカー・夢水・岩崎三姉妹・虹北恭助と本当にオールスターの名前が並んでいて手が震えます。
主人公の令夢は、自分の意思に関わらず並行世界へ移動してしまう「スリップ」という特殊能力を持っている中2女子。今回スリップした世界は、幼なじみの内人に創也という異常ハイスペックの親友がいる世界でした。ほかにも変人奇人が続々と登場してきます。今回の世界は、令夢の世界では亡くなっている母親が生存している世界でもあり、令夢にとって特別なスリップ体験になります。
夢水・創也・恭助と、はやみねワールドを代表する探偵役が一堂に会する場面とか、夢水とクイーンの会談の場面とか、長年はやみね作品を追ってきた読者には心臓が止まるかと思うようなシチュエーションが続きます。
はやみね作品にたくさん登場するのは、名探偵だけではありません。作家志望の子どもも何人か登場しています。児童文学に作家志望の子どもが多数出る理由について、荻原規子は「作家が一番よく知っているのは、作家になるタイプの人間のことなのだから、多く登場するのは当たり前といえば当たり前だ」と身も蓋もないことを述べています*1。しかし、ジャンルがミステリとなるとメタ要素が繰り出されるのではないかと身構えてしまいます。
はやみねかおるは、もちろん児童文学作家です。しかし、新本格の影響下にあるミステリ作家でもあることも忘れてはなりません。この作品を読んで、90年代中盤(夢水シリーズ開始・メフィスト賞スタートあたりの時期)から00年代中盤あたりの講談社ノベルスを中心としたミステリシーンが思い出され、懐かしい気分になりました。

*1:

ファンタジーのDNA

ファンタジーのDNA

『フレンドシップ ウォー こわれたボタンと友情のゆくえ』(アンドリュー・クレメンツ)

数学や科学を愛する少女グレースは、不動産業を営んでいるおじちゃんに新しく購入した工場跡地に連れて行ってもらいます。そこで発見した大量のボタンを家に送ってもらいました。ちょうど学校の授業でアメリカの産業革命がテーマになったので、グレースは参考資料としてボタンを少し学校に持って行きます。そうしたら、親友のエリーがみんなで学校にボタンを持ち寄ろうと提案しました。たちまち学校中でボタンが大流行します。
学校内ではボタンが異様な価値を持つようになり、まるで貨幣のように活発な交換がおこなわれるようになります。子どもたちが閉鎖された独自の貨幣経済圏を作り上げる話なので、谷崎潤一郎の短編「小さな王国」が思い出されます。そのなかで、グレースは特権的な立場にいます。グレースはこの現象を観察の対象にしようとします。彼女は観察と実験の作法を心得ているので、自分は観測する対象に干渉してはならないということを知っています。ただしグレースが隠し持っているボタンの資産は規格外なので、事態に干渉すれば市場を大混乱させることもできるのです。実は、グレースにはこの市場に干渉したくなる事情もありました。それが、この作品の軸になる親友エリーとの関係です。
エリーはクラスのボスで自己中心的なタイプ。グレースは自分の話を全然聞いてくれないエリーにだんだん不信感を持つようになります。そして、ボタンをめぐる騒動がふたりの関係を決定的に引き裂き、グレースはランチの時間にエリーの隣に座る権利を剥奪されてしまいます。グレースは自分の資産を活用しエリーに復讐しようとあれこれ策を練ります。一方で、エリーへの未練も捨てきれず懊悩します。経済戦争の戦略のおもしろさと元親友同士の関係性、このふたつの要素が物語を牽引していきます。
この作品でもわかるとおり、アンドリュー・クレメンツは子どもが社会と接続する様子を具体的に娯楽性たっぷりに描くのがうまい作家でした。2019年に亡くなり、この『フレンドシップ ウォー』が遺作となってしまったようです。