『見知らぬ友』(マルセロ・ビルマヘール)

アルゼンチンの作家による短編集。オーガフミヒロのイラストも狂気に満ちていて、他にない趣のある本になっています。
人生の苦みを感じさせる味わい深い短編が並んでいます。表題作の「見知らぬ友」は、ピンチのときに現れて助けてくれる不思議な友だちをめぐる話です。この友だちの正体・目的はなんなのか。たとえそれがどのようなものであっても、理由がわかればひとつの救いになるというのが、最高なだけでも最悪なだけでもない人生の真実を示しているように感じられます。
続く「世界一強い男」も、隠された秘密をめぐる物語です。床屋の男が、聖書のサムソンの話を引き合いにして強さの秘密を教えてくれます。気の抜けたギャグのようでいてよく考えると切なさを感じさせなくもないオチの小粋さが秀逸です。

物語になりそうな話があると声をかけられるときは、たいていあてにならない話と思っていい。おもしろくないからではなく、あるエピソードを作品にするには、それを何度かに分けて受けとる必要があるからだ。時間のフィルターを通して、複数の声で、いくつもの視点から語られるのがいい。(中略)ぼくが必要としているのは、つくりあげる余地のある物語のたねだ。もう手の入れようのない完成品じゃない。

粒ぞろいの作品の中でもとりわけ印象に残るのが、最後に配置されてる「クラス一の美少女」です。上に引用した興味深い創作論から始まるこの作品では、語り手は主人公にはならず物語のピースを組み立てる役割と、物語の主人公たちの仲立ちとしてある重要な小道具を配達する役割を果たします。
語り手は12歳のときに、ある美しい老女と出会います。そして老女が亡くなったあと、老女の学生時代の写真を1枚盗んでしまいます。大人になった語り手は、かの老女が着ていたのと同じ制服を持っている別の老女と出会います。その老女に盗んだ写真を見せた語り手は、思いがけない話を聞かされることになります。
語り手も読者も、新たに現れた老女の証言の真偽を判別する材料をあまり持っていません。さらに読者は、語り手が素材とした事実のピースをどの程度加工しているのか判断する手段を持ちません*1。老女の話を真実ととるか虚偽ととるか、それとも老齢のため記憶が混濁しているととるか、多様な解釈が可能になります。ただし、どの解釈をとるにせよ、ふたりの老女のあいだで長い時間熟成された思い出と感情の重さが尋常なものではないことは確かです。老境百合の傑作です。

*1:そもそも、冒頭で創作論を開陳するタイプの語り手を信用できるはずがない。語り手は読者の知り得ないもうひとりの老女の容貌という情報を持っているはずだが、作中ではそれに対する言及はない。語り手があえてこの情報を伏せているのだとしたら、それが示唆するのはそういうことなのだろう。

『撮影中につきおしずかに! 1 特殊効果に魔法少々』(にかいどう青)

「ウサギの足ってさ、むかしは切りとってお守りにしてたんだって。興味深いね」

ポプラ社の児童文庫新レーベル「ポプラキミノベル」でのにかいどう青の新シリーズ。たった3人だけの中学校の映画研究部の物語。魔法少女でこっそり魔法で映画の演出をしているハル、イケメン女子だが救いようのない映画オタクのカズキ、超絶美少女で演技力もあるけど腹黒の関西弁女子ココと、曲者揃いの少数精鋭メンバーです。この映研では広報のために依頼人を募ってオーダーメイドの映画を制作する活動をしていました。そこから起こる事件を解決する日常の謎ミステリというのが、この作品の軸になります。
はじめのエピソードで、この作品の方向性は確定されます。カップルの思い出作りのために様々な名画の名シーンをオマージュした映画を制作中のメンバーは、カップルの様子がおかしいことに気づきます。ご丁寧に主演カップルが破局したことで知られる『シザーハンズ』オマージュを入れて不穏さをねじこむ意地悪さがにかいどう青らしいです。そして、真相が明らかになって恋という言葉・概念の意味が崩壊し書き換えられる終局のダイナミックさには、唖然とさせられます。
事件のエピソードの合間に、映研メンバーの過去のエピソードも差し挟まれます。なんの苦労もなく学校生活を送っているようにみえる美少女たちの裏側にあるものはなんなのか、水面下のドロドロは相当なもののようです。
ミステリと闇と百合がにかいどう青の持ち味。このシリーズはその特性を生かせるシリーズになりそうです。

『みんなふつうで、みんなへん。』(枡野浩一)

みんなふつうで、みんなへん。 (読書の時間 5)

みんなふつうで、みんなへん。 (読書の時間 5)

  • 作者:枡野浩一
  • 発売日: 2021/01/06
  • メディア: 単行本
3年1組の子どもたちの勘違いや思い違いをテーマにしたショートストーリー集です。先生から「ボールをわすれずに」と言われたのを自分に都合よく解釈してずっとほしかったオレンジ色のボールを買ったけど、本当は理科の実験用にボウルが必要であったというエピソードから始まり、いかにもありそうな失敗談が並べられています。枡野浩一の人物像を知っていたら、「これは実体験では……」と想像できるようなものも散見されます。
子どもの恥を素材にしているので、デリケートに扱わないと小学生読者にいやな思いをさせるおそれがあります。この作品は物語化を避け淡々と記述することで、その懸念を払拭しています。小説というよりもスケッチか事例報告のようで、過度に笑い話にしたり共感を押しつけたりするような要素は薄くなっています。子どもの失敗をただ当たり前にそこにあるものとして受け入れているようです。
たとえが適切かどうか自信がありませんが、青木淳悟の『私のいない高校』のような読み味が感じられました。

『わたし、パリにいったの』(たかどのほうこ)

わたし、パリにいったの

わたし、パリにいったの

姉妹の関係性とはなんなのか、これは永遠の難問です。少なくとも姉には先に生まれたというアドバンテージがあるはずですが、だからといって力関係が姉の方が上とは限らないのがおもしろいところです。
はなちゃんとめめちゃんはとても仲のよい姉妹。ふたりでパリへの家族旅行のアルバムを見るのが大好きで、今日も飽きずに見ていました。このときめめちゃんはまだ生まれていなかったのですが、はなちゃんがアイスクリームを落としたこと、通りかかったおねえさんが落としたハンカチを拾ってあげたこと、どんなエピソードも「しってる」と答えます。
はなちゃんは何度も話を聞いたので覚えたのだろうと思いますが、めめちゃんは自分はおかあさんのおなかのなかで見ていたのだと言います。ここで、ふたりの力関係は妹が優勢になります。めめちゃんの語る話の方がディテールが細かく色彩や感覚の解像度も上がっいて、パリの風景がさらに魅力的に立ち上がってきます。
はたしてめめちゃんは本当に見ていたのか、それともおかあさんから聞いたことを話しているのか。はなちゃんが問い詰めるなかで、ふたりはおそろしくも笑える光景を生成してしまいます。このあきれるほどの光景はたかどのほうこならではの奇想で、傑作としかいいようがありません。
ふたりがしていたことは結局、共同して空想上の化け物を作りあげる作業だったのだということになります。少なくともこの作品における姉妹の関係性は、共犯者に近いものであるようです。

『たいへんたいへん』(渡辺茂男/やく 長新太/え)

イギリスの昔話を元にした絵本。訳が渡辺茂男でイラストが長新太なので、信頼感しかありません。
頭上になにか落ちてきたことから「そらが おちてきた」と思っためんどりは、おうさまに知らせるために走ります。おんどり・ぐわぐわがちょう・くわっくわっあひる・しちめんちょうと、仲間がどんどん増えていきます。
「はしりだしました。はしりました。はしりましたとも」という言い回しの繰り返しで、疾走感が演出されます。長新太のカメラワークや木々の揺らし方も巧みで、緩い絵柄なのにスピード感は尋常ではありません。
そこへ悪いきつねが登場し、鳥たちの首を次々に「すぽん!」するというバイオレンス展開になります。「すぽん!」「よいしょ」という繰り返しのリズム感の気持ちよさ、渡辺茂男の言語感覚のさえわたっていること。
そして結末は……この期に及んでそこなのという読者を置いてきぼりにするものでした。ナンセンスでバイオレンスで子どもの教育によろしくない、すばらしい絵本です。

『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス)

スーパー・ノヴァ

スーパー・ノヴァ

ノヴァは「読めず、話せず、重い知恵遅れ」だと大人たちから思われている女子。姉のブリジットだけがノヴァに知性があることを理解していて、ノヴァの大好きな宇宙の話などを聞かせてくれていました。しかしノヴァとブリジットは里親の元を転々とする安定しない生活を余儀なくされていました。そして、ふたりが楽しみにしていたチャレンジャーの打ち上げを前にして、ブリジットはいなくなってしまいます。
作品の舞台は1986年。現在の読者は、チャレンジャーの打ち上げは悲劇で終わったことを知った状態で作品を読むことになります。皮肉なことに、最愛の姉がいなくなったあとノヴァの境遇はだいぶ良好になりました。里親にも理解があり、当時としては良心的だったと思われる特別支援教育を受けられるようになります。でも、ブリジットのいない状況ではノヴァが自分の知性を周囲に証明するのは困難です。強烈なもどかしさにさいなまれながらも着実に前進するノヴァの姿は、読者の心を揺さぶります。
当事者でもある作者による解説では、自閉症に対する理解や支援の変化が紹介されています。テクノロジーの進歩によって自閉症者のコミュニケーション手段が増えるさまは、1986年の視点からみればSF的なまでに思えるのではないでしょうか。
ただし、ノヴァにだけ目を向けていたら、この作品の半面しかみていないことになります。以下、もうひとりの主人公ブリジットについて言及します。彼女の件は作中で最後まで引っぱられる謎になっていてミスリードを仕掛けていると思われる箇所もあったので、未読の方は自己判断で読んでください。












はい、わたしはミスリードに引っかかってブリジットはイマジナリー姉だと思っていましたよ。それだけに、彼女のあまりにも凡庸な悲劇には胸を突かれました。ハイパー優等生女子がつまらない男に引っかかって堕落するというあまりにもありふれた結末。いや、深刻な障害を持つ妹を支えながら優等生を演じるという荷の重すぎる仮面を外せたことは、彼女にとって救いだったととらえるべきなのかもしれません。どちらにせよ、結末の凡庸さこそが作品に説得力と迫力を与えていることは間違いありません。
この作品のもうひとつの側面は、日本の児童文学でも流行の素材になりつつあるヤングケアラーの問題です。ノヴァがはじめから物語開始時点の環境にあればブリジットはここまで苦労することなくあんな結末を迎えずにすんだのかもしれないと考えると、なんともやりきれません。

『ずっと一年生!?  トラブル解決大作戦』(宗田理)

2003年に角川文庫で刊行された『マミーよ永遠に』がつばさ文庫化されました。名門校私立生生学園高校には、先生よりも権力を持った名物生徒がいました。留年を繰り返してずっと高校1年生を続けている「マミー」と呼ばれている女子(?)がそれです。豪快な人間力と料理の腕で平和的に学園に君臨するマミーの活躍が描かれます。
校長先生が大事にしているツボを割ってしまう事件の隠蔽工作から始まり、昭和のユーモア小説の香りを残したちょうどよい温度の事件が続きます。1話完結型の短いエピソードが並んでいるので、読んでいて疲れないのもよいです。こういうテンポの作品はいまでは少なくなっていますが、こういうのが娯楽読み物としてしっくりくる小学生もいるはずです。
やはり学校という閉鎖空間には秩序を破壊するトリックスターが必要で、そういう意味で年齢不詳でキャラ格が異様に高いマミーは非常に魅力的です。得意料理の「マミー焼き」の中毒性からなにか盛っているのではないかという疑惑も持たれますが、それは考えすぎでしょう。
わたしが一番好きなエピソードは、教育実習でマミーの元同級生が帰ってくるやつです。高校時代に先生を自転車で轢いて病院送りにしたという武勇伝を持つ彼女は、唯一マミーと対等以上に渡りあえるキャラでした。マミーにぐいぐい迫り最終的には学校に持ちこんだ生物兵器でノックアウトするという、秀逸な百合コメディになっていました。