『JC紫式部① 転校先は、"姫"ばかり!?』(石崎洋司)

大河ドラマ効果で児童書コーナーには紫式部本がたくさん並んでいますが、それにしてもよくこんなカオス企画が通ったものだと思います。
巻頭は阿倍野ちゃこ*1の漫画で、紫式部藤原兼家にunkoを投げつけるという、青い鳥文庫史上でもなかなかの下品な開幕をみせます。そして本編の舞台は現代に移り、主人公はニューヨーク育ちの帰国子女の中学一年生一ノ瀬彩羽が務めます。父の仕事の都合で日本の学校に転校しますが、そこがなぜか平安ワールド。転校初日に毎月入っていい校門が変わるシステムが理解できず困っていたところを、高等部のイケメン道長さまに助けられます。そのシステムを攻略するのは初見には無理。日本育ちの中学生でもふつうは方違えのルールは知らないし「衣通姫」とかの読み方も知らないし「藤原」に序列があることも知らないので、彩羽はなにも気にしない方がいいと思うよ。
彩羽のお世話係になったのは藤原紫(貧乏な方の「藤原」)。彼女との出会いの場はローズガーデンという優雅な場所でしたが、紫は彩羽に一平ちゃんをごちそうしてくれるという庶民性をみせます。帰国子女が真っ先に体験すべき日本文化はカップ焼きそばなのか。それもペヤングでもUFOでもなく一平ちゃんであるというところにこだわりが感じられます。しかし紫はクラスの女王様の清原清菜と対立していたので、彩羽も巻きこまれてクラスで孤立してしまいます。
石崎洋司が娯楽読物作家として優秀であることはいうまでもありませんが、彼には娯楽読物を通して子どもに知識を与えようとする生真面目な教育者の側面もあります。黒魔女さんを読んでいれば、かなりの教養が身につきます。そんな石崎洋司ですから、こういう企画はお手のもの。意味不明なルールの多い平安世界を不条理ギャグワールドとして読み替え、娯楽読物として昇華しています。
石崎洋司らしくオカルト要素が強いのも楽しいです。もっとも気になるのは、目玉のついた気持ち悪い黒バラ。1巻の時点ではまだ物語の方向性はあまりみえませんが、ミステリアスな布石はいくつも打たれているので、続きが気になります。

*1:巻頭漫画構成協力として天王寺きつねの名前もクレジットされている。

『トモルの海』(戸部寧子)

第4回フレーベル館ものがたり新人賞大賞受賞作。小学5年生のトモルは、夏休みにおばあちゃんの家に滞在しました。誤算だったのは、トモルはおばあちゃんの家の近くには海があるものと思いこんでいたのに、なかったこと。ひとりでスポーツウォール相手にボールを投げていると、めぐると名乗る年上のおねえさんに声をかけられます。トモルの夏は、この神出鬼没のふしぎなおねえさんめぐるちゃんと過ごす日々になりました。いや、早く逃げて。夏に少年の前に現れるおねえさんはだいたい妖怪だから遭遇したらダッシュで逃げろって村の古老から教わったでしょ。

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことは
できないだろう
寺山修司ロング・グッドバイ」)

なみだは
にんげんの作る一ばん小さな海です
寺山修司ロング・グッドバイ」)

物語の軸はトモルが自分だけの海を見つける物語と要約すればすんでしまうので、あまり論評を付け加える必要はありません。現実と夢が容易に混濁してしまう作品世界の幻想性を楽しめばよいだけです。物語の冒頭からして、お父さんの運転する車のなかで知らない人と海辺でキャッチボールをする夢を見るところから始まるので、その方向性は徹底しています。たとえば、水族館で魚を見ているといつの間にかその場にいなかったはずのめぐるちゃんが現れ、いっしょに水槽の中に入りクラゲやペンギンやオットセイたちと野球をしているといった具合。読者にできることは、「想像や夢が現実を追いぬく瞬間だってあるわ」というめぐるちゃんの言葉に導かれるようにたゆたうことだけです。

『ポー短編集 黒猫』(原作/エドガー・アラン・ポー 文/にかいどう青)

もちろん、「黒猫」のような残酷な猫虐待小説が良書なわけがありません。でも、文学を愛する人々はみんな知っています。子どもにはむしろ悪書をこそ手渡すべきだということを。
ポプラ社〈ホラー・クリッパー〉シリーズの第5弾。いままで三田村信行富安陽子松原秀行・令丈ヒロ子といった人気実力を兼ね備えた押しも押されもせぬベテランが並んでいたシリーズでまだキャリアが10年に満たない作家が起用されるのは通常なら違和感が持たれそうですが、にかいどう青であれば当然という感じがします。
にかいどう青が選んだポー作品は以下の通り。

「黒猫」
ウィリアム・ウィルソン
「赤死病の仮面」
「アモンティリャードのたる」
「落とし穴とふり子」
「ひとり」

ここでは、にかいどう青という作家を理解するための手がかりとして収録作をみていきます。
収録作のほとんどは、死を前にした人の手記・告白という形式のものです。「黒猫」の主人公は絞首台を前にしていて、「ウィリアム・ウィルソン」も死を目前に控えた人の手記です。結果的に助かるものの、「落とし穴とふり子」も死刑宣告をされた者が白い紙に書き記した手記。「アモンティリャードのたる」ははっきりとはしていませんが、光文社新訳文庫版『黒猫/モルグ街の殺人』の訳者の小川高義は作品の冒頭に一度だけ「you」が使われていることから、これは死を前にした老犯罪者が自分の罪を聖職者に告白したものなのだと解釈しています。この作品集は、露骨に読者を死に向きあわせようとしています。
最初に配置された「黒猫」では、はじめは親友だった猫に対する愛情が裏返ります。愛と憎悪が表裏一体であるというのは、にかいどう青作品でも繰り返されているテーマです。
その意味において黒猫は他者ですが、次に配置された「ウィリアム・ウィルソン」を参照すると、別の見方ができます。殺しても殺しても蘇り、いくら逃げようとしても逃げ切れない存在とは、自分自身に他なりません。ここで他者と自己が同一のものになります。この2作を続けてみると現れてくる自己と他者の混同・とけあいから、いくつかのにかいどう作品において(主に同性間の)恋愛は好きな相手と一体化することによって成就することも思い起こさせます。
最後にひとつだけ詩の「ひとり」を配置しているのも意味ありげです。自己と向きあい孤独を志向する態度.。にかいどう青は主にどのようなタイプの子どもに語りかけようとしているのか、その姿勢がみえてきそうです。

『わたしに続く道』(山本悦子)

リイマのマミーは日本人で父はケニア人でしたが、父はいなくなってしまい、マミーは日本人のシンちゃんと再婚しました。優しい父親ができてハッピーな新生活になるはずでしたが、想定外だったのはシンちゃんの母親も同居すること。新しいおばあちゃんは元中学校教員できちっとした人だけど、毎朝リイマと顔を合わせるたびにとまどったような表情を見せます。また、いわゆる「日本人」っぽくない外見の子どもの両親がどっちもいわゆる「日本人」になったことで、リイマに対する差別はいままでとは異なる局面に入りました。そんななか、五十メートル走で学年一の記録を出したことから、「黒人だから速いだけ」「ぜってー、ズリいよな」と騒がれる事件が起こります。
起こっていることは間違いなく差別事案で、それを糾弾するのも正当な行為です。しかしリイマは、これを一元的に「人種差別」とくくられることを嫌います。リイマは「外国人」と言われると腹が立ちますが、ケニアがいやなわけではなく黒い肌も好んでいます。でも、他人からケニア人とは言われたくありません。リイマの言葉だと「しりめつれつ」。作品は差別される側の感情の複雑さに向き合おうとしています。
第一章では学校や家庭の問題が語られます。そして第二章では、リイマとおばあちゃんのケニア旅行の模様が語られます。
これは自分のルーツを探る特別な旅ではありません。商業的にパッケージされたただの観光旅行です。ただの観光旅行にしたことが、この作品の肝です。日本では被差別者として見られる側にいたリイマが、今度は観光客として見る側にまわるという転倒がなされます。見る立場と見られる立場のあいだで浮遊する様子を描き出したことが、この作品の成果でしょう。

『尊敬する人はいません(今のところ)』(中山聖子)

小学六年生の若羽と慧と、それぞれの父親の物語です。慧の父親はテレビにも出ている有名弁護士で、家でも勉強したり体を鍛えたりしている真面目な正義の人でした。若羽の父親はフリーダムな人で、いまはあやしげな健康器具の販売をしています。
この作品で描かれているのは、あからなさま暴力や暴言のような虐待はしなくても子どもの尊厳を傷つけている親です。インチキ健康器具で商売することは人を医療から遠ざける危険性があり、明らかに社会に害をなす商売であるといえます。実際作中でも父親が原因のひとつとなって近所の老人が病気になってしまいます。親が尊敬できない仕事をしていることは、子どもの尊厳に関わる問題です。
ただし、作中では若羽の父親の悪人とは言い切れない側面も描いていきます。父親が実演販売している場面を目撃した若羽は、インキチで大嘘つきであるとしながらも「お客さんたちは、すごく楽しそうだった」という点は評価します。それも詐欺師のテクニックではあるんですけど。
物語の序盤、塾をサボって公園にいた慧は、偶然若羽の父親と遭遇します。変な銀色の棒を振っている若羽の父親はどうみても不審者でした。しかしこの場面で慧に同情し銀色の棒をくれた行動は、児童文学に登場するよい不審者*1の挙動です。実際に慧にはよい影響を与えています。
一方、慧の父親の長所は、正論で人を追い詰めるという短所に転じることもあります。慧がムー的趣味を持つ友だちの影響でエイリアンの想像図などを描いていることを知った父親は、「根拠もないようなことを信じるのはとても危険」「妙な団体に入ったり、だまされて高額なものを買わされたりして、たいへんなことになった人たちが大勢いるんだ」と説教し、結果として慧はその友だちと疎遠になってしまいます。この父親の説教には反論したいけど、実際作中に人をだます悪人が出てくるので反論しにくいところがたち悪いですね。
受験のための面接対策をしている慧が尊敬する人はいないと主張する場面は、気軽に他人の内心に立ち入ろうとする者への怒りが表明されていて、胸を打ちます。

そういうこと、簡単に聞かれて口にするたび、僕が僕じゃなくなっていくような気がする。自分の気持ちの、すごく浅いところで思いついたことだけが現実になって、もっと本当の、心の奥にあるものは置いていかれる。僕はもう、いいかげんなことは言いたくない。そうじゃないと、やっとわかりはじめたことまで台無しになってしまうから」

若羽と慧がそれぞれ父親から決定的な一言を受ける場面が、作品のひとつの収束点になります。180ページの若羽の父親のセリフは、もうこの人と暮らすことは無理であるということを確定させます。
205ページの慧の父親のセリフは、素直に読めば和解の可能性を示しているととれるでしょう。ここであえて、あれも決裂のセリフであるという読みも提示したいです。一見本音を言っているようにみえるあれは、父親が慧のことを諦めて実の息子に対しても外ヅラで接することに決めたということです。あのタイプの外面完璧人間は、身内に対してもそういう冷酷なことができてしまうものです。

*1:児童文学に登場するよい不審者って何?  ソラモリさんみたいなやつ。

『シニカル探偵 安土真 1 結成!放課後カイケツ団』(齊藤飛鳥)

渡辺さくらは目の前を横切った黒猫が塀にぶつかってしまうほどの疫病神体質の持ち主。周囲に不幸を招くのでひとつの土地に留まることができず、さくらとその家族は引っ越しを繰り返していました。厄介事に巻きこまないよう友だちはつくらず、ある事情で家にもいたくないので、さくらは転校のたびに学校内にひとりでひっそりと過ごせる隠れ家をつくる「アウトドア派のひきこもり」活動をしていました。ところが今回転校した学校ではさくらが目をつけた場所にいつも自称探偵の安土真という性格最悪のマッシュルーム頭の男子が先に探偵事務所をかまえていて、さくらも面倒事に引きずりこまれてしまいます。
作中には奇人変人が多く、キャラクターの造型の極端さが目を引きます。ピエタとトランジごっこができそうなさくらの体質はミステリ向けのようですが、いまのところこの設定は不幸ギャグを繰り出すための装置としての役割ばかり果たしています。〈災厄のさくら(カラミティーチェリー)〉という二つ名までついているのも笑えます。空き教室にもぐりこむためさくらはピッキングの技術を習得していて、もはや不法侵入常習の犯罪者になっています。
探偵役の安土真は口の悪さが最大の特徴です。容疑者に向かって「話をきかなくても、爆笑したくなるくらい犯人がばかだから、九十九パーセントわかっちゃったんだよ。あと、必要なのは、そのばかが犯人であることを証明するだけさ」と言い放つといった具合。罵倒の語彙がちゃんと小学生レベルなのもいいです。
さくらが家にいたくない理由は、母親があやしい宗教に洗脳されていたからでした。マトリョーシカに千手観音のような手が生えたパルゲニョ神という神様を信仰している母親が朝っぱらから聖なるカスタネットを叩いて騒ぐといった奇行をするのが、さくらの家の日常です。宗教二世という深刻な問題が、この作品ではほとんどギャグとして扱われています。
さくらは隠れ家探しが難航したある学校の事例を振り返ります。その学校は空き教室が多く学校図書館の閲覧室に転用されていて、第四閲覧室までつくられていました。これは隠れ家に絶好の場所のようでしたが、素行の悪い生徒が暴力行為をおこなうリンチルームになっていて、さくらは近寄れませんでした。ばかげているくらい治安の悪い学校です。ここで提示されているのは、少子化で空き教室が増えると同時に教員の多忙化と人手不足のせいで学校内の安全管理が行き届かなくなっているという、きわめて現代的な問題です。
いままでの齊藤作品でも文体の操作*1などの搦め手で社会問題に取り組んでいましたが、重い問題をギャグにして笑い飛ばすという今作の手法はかなり先鋭的にみえます。著者の作風を知らない初見の読者であれば、悪ふざけがすぎると嫌悪感を抱いてしまうかもしれません。
ブラウン神父を引いて大きすぎるため目につかない凶器を出すといった、ミステリとしてのおもしろさも確保されています。
空き家を秘密基地にすることがさくらたちの目標で、そのための戦力増強、仲間集めが当面の課題です。全体としては子どもの居場所というまっとうに児童文学的なテーマに取り組んでいるようにみえます。そこにこの作品の過剰さがどう作用するのか、先が気になります。

*1:『へなちょこ探偵24じ』のハードボイルド調、『子ども食堂かみふうせん』のポリアンナ調の語りの仮装など。

『満月のとちゅう』(はんだ浩恵)

小学六年生の美話と自称小学二十一年生のコピーライターソラモリさんのひと夏の言葉を巡る冒険『ソラモリさんとわたし』の続編。ソラモリさんのような魅力的な不審者はひと夏の思い出として消え去ってくれても美しいし、関係が継続するならそれもまたうれしいものです。『ソラモリさんとわたし』は後者のパターンできれいな収め方をしたことでも評判になりました。ということで、ふたりの物語は続きます。
『ソラモリさんとわたし』の美点は、独自の言語センスとふたりの関係性の独自性です。それは踏襲されつつ、今回は登場人物が大幅に増えたので、みんなでわいわい文系の活動をする楽しさも味わわせてもらえます。
本作は二部構成で、第一部は小学生時代最後の冬、第二部は中学文芸部編です。美話たちは、児童館に寄付する絵本を制作します。ところが頼みの綱の作画担当の子が体調不良になり、どう切り抜けるべきか試練が訪れます。ビンチだからこそ、小学生なりの知恵の出しあいが盛り上がります。ホワイトボードを使用して大人みたいにミーティングする様子も楽しげです。
ただしソラモリさんと言葉の世界に挑んでいる美話にとって、これは苦い失敗経験として記憶に刻みつけられます。釈然としない思いを抱えたまま、中学生編に突入します。なぜか美話に重い感情を向けてくる女子が現れます。そして文芸部のいにしえの作品集という不発弾が発掘されたことから、全面戦争が避けられなくなります。というガチの争いもありつつ、文芸部と歴史模型部が最底辺部活争いをしてるというゆる部活要素があるのもよいです。
ソラモリさんは変わらず、「めんどどくさい」とか「わかんない侍」とか大人げないハイセンスワードを繰り出してきます。大人げないソラモリさんと美話の関係は師妹ではなく、対等に近いものになります。これは大人に対する甘えを許さないということでもあるので、実はかなり厳しい態度です。とはいえ、美話は無事中学に進学しソラモリさんは「小学生マイナス二年生」に降格したので、どうなのかな。
読者としてはこのふたりの今後の行く末をみたいところですが、『ソラモリさんとわたし』も『満月のとちゅう』もラスト1行がキマっていてみごとに閉じられて(いながら開かれて)いるので、続編を望むべきか否か悩まれます。