『きみの存在を意識する』(梨屋アリエ)

きみの存在を意識する (teens’best selection)

きみの存在を意識する (teens’best selection)

連作短編の名手梨屋アリエの新作は、ディスレクシアなどみえにくい困難を抱える子どもたちを主人公にした連作短編集です。梨屋アリエは以前から、認知されにくい弱者をテーマにした作品をたくさんものしていました。それゆえ評価する側の理解が追いつかず、キャリアにふさわしい受賞歴がないのが梨屋アリエの不幸です。しかし、マイノリティに属するの悩める子どもたちを救ってきた実績こそが、梨屋アリエの勲章です。この作品も多くの子どもを救う作品になるはずです。
最初の主人公になるのは、自分が本を読むことが極端に苦手な人間であることを自覚し始めた石崎ひすい。中学2年生の新担任が班対抗で読書量を競わせる活動を強いたことによって、クラス内の立場が難しくなってきます。
いまどき班競争などをやらせる担任は、昭和の時代からまったく教育の手法を変えることなく過ごしてきたのでしょう。この担任は職員室でも浮いているようですが、その思想は実は現代でも強固な力を保持しています。すなわち、合理的配慮などずるであり、少数派の意見は多数派の圧力で叩きつぶすことが正義であるという思想です。
困難を抱えている子どもたちは、実にいろいろなことを考えています。大人の立場からみれば、そこまで頭を使わざるをえない状況に追い込まれていることが痛ましく感じられます。ひすいの親は、困っている人のために活動することが大好きな善人です。ひすいと同じ年齢の拓真を養子として引き取って育てています。そんな親をひすいは「ぎりぎりで生活している人のお世話をしているものだから、幸せのハードルがとてつもなく低いのだ」と、シニカルに眺めています。拓真はひすいの困難を親にわかってもらおうと情報を提供しますが、拒絶されます。自分の失敗の原因を親の気持ちを考えなかったせいであると分析し、「家族のこと、わかりたかったら、わかろうとしちゃダメなんだ」と限界まで気配りをします。
どの登場人物も印象に残りますが、見逃してはならないのは主役にはならない梅田という子です。この子はクラスカーストトップグループの腰巾着で、少数派に対して平気で暴言を吐く加害者としてふるまいます。でも、この子にも内面はあるはずです。小説を書いて人から感想をもらって嬉しかったという気持ちはあるでしょうし、本編で語られない悩みも抱えているはずです。
そんな梅田は、字を書くのが苦手な心桜からある言葉をもらいます。この言葉は、おそらく著者の肉声に近い言葉であると思われます。こういうとき、苦しんでいる子どもに手をさしのべるときの梨屋アリエは、言葉を飾りません。著者が血を流して書いた生々しい言葉であるがゆえに、それは並々ならぬ説得力を持ちます。
そして、その言葉は梅田を経由して「こはる」から「こはる」に配達されます。言葉が届いたということが、希望なのだと思います。

『トロイメライ』(村山早紀)

トロイメライ (立東舎)

トロイメライ (立東舎)

『春の旅人』に続く、村山早紀とげみのコラボ短編集第2弾です。
表題作「トロイメライ」は、日本児童文学者協会編の叢書「おはなしのピースウォーク」に収録されていたものです。温暖化が進み春にひまわりが咲き夏は死の季節になった未来の話。死者はその人にそっくりのロボットと入れ替わるようになっていて、主人公も亡くなった兄と同じ姿のロボットと生活しています。破滅に向かいながらも人とテクノロジーの力によるあたたかみのある世界を作り上げる手腕は、村山早紀ならでは。独特の味わいのあるジュヴナイルSF世界が構築されています。しかしやがて戦争が始まり、人間そっくりのロボットが戦場に駆りだされるようになり、世界の破滅は決定的になります。
主人公のクラスメイトの弘志くんはいつも本ばかり読んでいて、周りから「なにを考えているかわからない」と評されるような子です。でも、やはり本が好きな主人公は、弘志くんに共感を寄せます。「なにを考えているかわからない」というのが非難の言葉として成立するのはなぜなのでしょうか。人は常に本心をオープンにすべきという規範があるとするなら、それはおそろしいことです。でも、おそらくそういうことではないのでしょう。オープンにできる建前が本心であるかのようにふるまい、建前を本心にすりかえよという圧力なのでしょう。これをうまく利用すれば、人々が相互監視しあい非国民は特高に連れていかれるという世界を実現するのは、そんなに難しいことではありません。
『春の旅人』と同様、イラストの力を感じさせる本になっています。弘志くんの父親の「マッドサイエンティスト」のイメージイラストなんかは、かっこよさとうさんくささの配分が見事。一番いいイラストは、雛人形が主人公の最後の短編「秋の祭り」のラストに配置されているものです。本文に書いている内容からは逸脱していないのですが、動物の背後に読者の視点を置き中心となる光景を眺めさせることで、より物語の完結感を高めています。

『ナマコ天国』(本川達雄/作 こしだミカ/絵)

ナマコ天国

ナマコ天国

『ゾウの時間とネズミの時間』などで有名な歌う生物学者本川達雄の新作生物学絵本。初めて専門のナマコだけをテーマにした本らしいです。ということは、今まで本川先生は本気出してなかったってことなの、我々が常軌を逸していると思って読んでいたいままでの本はリミッターつけた状態で作ってたのか、という疑問がわいてきます。そして我々は、この本で本気の本川先生の恐ろしさを思い知らされることになるのです。
沖縄で海水浴をしているふたりの子どもに〈超人!? ナ・マーコ〉がナマコの生態を解説するという設定になっています。こしだミカの描くナ・マーコのインパクトは相当なもの。バックベアード様みたいなこいつがアップでぬっと顔を出すと、心臓を持っていかれます。
ほぼ皮だけで構成され、中身は腸だけというナマコの体は、生き物は円柱形であるということを強烈に意識させます。そして圧巻なのは、哺乳類とナマコの違いをまとめた表です。「目」「鼻」「口」「心臓」「脳」について、当然哺乳類はすべて持っているわけですが、ナマコは「ないない」「ありません」「なーし」「ないなーい」「ないヨー」となっています。心臓や脳もないとなると、哺乳類の基準で考えれば生きているのかどうかすら判然としません。人とはまったく異なる生き方に引きこまれていきます。
ステータスを守備力と再生能力に全振りして、とにかく食われにくい特性を獲得したナマコ。敵から逃げる必要もないので動く必要もなく、そのため感覚器官も脳も筋肉もなくてよい、理想的な省エネ生活ができるというのがナマコの生き方です。それゆえのナマコ天国というタイトルです。
クライマックスには、本川ファンにはおなじみのおうたの時間も確保されています。慣れていない人は、突如としてページいっぱいに譜面が登場することにも驚かされることでしょう。

砂を食べてりゃ 砂を食べてりゃ
砂を食べてりゃ この世は天国
ナマコ天国 ナマコ天国
ナマコの パラダイス 

ただ生物の生態を説明されているだけのはずなのになにかとんでもない危険思想を吹きこまれ洗脳されているのではないかという疑惑を、読者は抱かされることになります。
ところで、ここまで防御力に特化したナマコにも、捕食しようとする敵はいるんですよね。ホモ・サピエンスとかいうやつなんですけど。ナマコ天国を守るために、ホモ・サピエンスは滅ぼすべきでは?

『あしたへいったねずみたち』(小沢正)

あしたへいったねずみたち (新創作童話)

あしたへいったねずみたち (新創作童話)

人生の真実が書いてある文学・本物の短編小説を読みたい気分のとき、人はどうすればいいのか、児童文学の不条理短編を読めばいいんですね。ということで、小沢正・長新太による動物童話集『あしたへいったねずみたち』に収録されている各短編を紹介します。
第1・第2の短編「窓のむこう」「二つのボール」は、人が失踪という状況に至るさまを描いた作品です。「窓のむこう」は、窓の外に見える不思議な野原の光景に憧れたきつねが蒸発してしまう、安房直子風の作品です。「二つのボール」の方は、身の回りを跳ね回るボールに悩まされるうさぎが狂気に陥りやはり姿を消す話です。
第3話「こまった手紙」も狂気度が高いです。かえるの元に毎日のように奇妙な手紙が届きます。手紙の差出人は、フライパンやエンピツけずりなど、自宅にある無生物たち。やがて手紙は、身に覚えのない百万円の借金の返済を迫るものに変容していきます。
第4話の表題作「あしたへいったねずみたち」は、ようふくだんす型のタイムマシンで1日未来へ旅立った2匹のねずみの話です。思いがけないアクシデントによって帰還が不可能になり、タイムパラドックスと実存の不安に悩まされることになります。
第5話「ダルマになる山」は、ダルマの幻想に取り憑かれた童話作家のやぎの話。入りこんだ者をダルマにしてしまう山に団地ができるということを聞いたやぎは、団地の窓から無数のダルマが顔をのぞかせるというすさまじい光景を幻視します。
さて、どの作品も頭のおかしいものばかりなのですが、なかでも白眉なのは最後の短編「ほほえむ きつね」です。ぶたのブタノくんは、電車のなかでベビーカーのあかんぼうを見て「かがやくようなほほえみ」を浮かべているきつねを観察していました。ベビーカーが去ってからもきつねのほほえみは変わらなかったので、その笑顔の理由はあかんぼうではなかったということになり、ブタノくんはその理由を知りたくなって悩みます。その後ブタノくんは、以前見かけたことのあるマネキン人形が例のきつねにそっくりであったことを思い出し、あのきつねの正体はマネキンだったのではないかと想像します。ブタノくんは、どこかへ売られてそのうち廃棄されてしまうマネキンの運命を思い、次のように考えます。

(できれば、あのきつねのそばに、あかんぼうか子どもの人形をおいてやればいいのにな)
 と考えました。そうすれば、ほほえみが、見る人の目に、いかにも本物らしくうつるにちがいないし、きつねのほうも、いまよりももっと、しあわせになれるのではあるまいか、とブタノくんには、そんな気がしたのです。

実は世の中には本物ではないものがたくさんあるのではないか、偽物には偽物の幸福があるのではないか、そんなことを考えさせられます。ただ、一歩引いて考えると、電車のなかのきつねとマネキンを混同するブタノくんの思考には明確な根拠はありません。となると、他人のほほえみを偽物扱いするブタノくんの傲慢はなんなのかという問題も浮上してきます。

『最後のドラゴン』(ガレット・ワイヤー)

最後のドラゴン

最後のドラゴン

猫っていうのは、ただ無愛想なのだ。悪気はないのだ。(p262)

1803年にドイツの〈黒い森(シュワルツワルト)〉で生まれたドラゴンのグリシャの数奇な運命の物語。悪い魔法使いのレオポルドに小さなティーポットにされてしまい、フランツ・ヨーゼフ皇帝の宮廷に引き取られます。やがて魔法が解けドラゴンの姿に戻りますが、時代が変化し戦争の道具としてのドラゴンは必要とされなくなっていました。ドラゴンたちはウィーンの絶滅外来種省に管理され自由を奪われてしまいます。そんななか、ウィーンの高級ホテルのバーでグリシャが11歳の少女マギーと知り合ったことから、ドラゴンたちの運命が動き出します。
作品の序盤は、時間がゆったりと流れていきます。ティーポットにされて動くこともできず孤独にさいなまれるグリシャですが、観察することで自分の問題を忘れることができることを知り、生きる意味を見出します。不幸な身の上ではありますが、人間を超越した時間の流れを疑似体験できるのは楽しくもあります。
そして、時代はどんどん新しくなります。しかし古い都であるウィーンは魔法的なところを残しています。皇帝が使用していた秘密の抜け道があったり、至るところに猫がいたり。この都市を観光するのも、この作品の楽しみどころのひとつです。
もうひとりの主人公マギーは、母を亡くしてからずっとホテルぐらしをしている、家を持たない子どもです。そこは、故郷喪失者であるグリシャと共通しています。児童文学が好きな人であれば、ホテルぐらしの故郷を喪失した子どもという設定からエンデの短編「遠い旅路の目的地」のシリルを思い出すのではないでしょうか。シリルは、欲望のままに生き他人から収奪し尽くしていました。これとは対照的なマギーの選択が印象に残ります。

『火狩りの王 二 影ノ火』(日向理恵子)

火狩りの王〈二〉 影ノ火

火狩りの王〈二〉 影ノ火

火に近づくと人体が発火するようになった未来を舞台にしたポスト・アポカリプス児童文学の第二弾。首都入りした灯子はもうひとりの主人公の煌四と出会い、人と神と異形のものたちの運命が交錯する物語がさらに加速していきます。
煌四の方はすっかり不幸が似合うキャラになってきました。病身の妹を人質に取られて兵器開発に協力させられているというかわいそうな境遇の煌四。兵器開発ではめざましい成果をあげるものの、妹はすでにあんなことになってしまい、不幸に磨きがかかります。
灯子は偶然出会った火狩りの明楽を師にするかたちで戦いの道に入っていきます、しかし灯子はきちんとした戦闘訓練を受けているわけではありません。武器の重さにひるんでしまうといったあたりにリアリティがあります。しかしそんななかで明楽への重いが崇拝に近い状態になってきているのが危うい感じです。灯子の仲間はどんどん増えますが、それが改造人間ばかりというのがまた、この世界のひどさをいい具合に象徴しています。
2巻ではいよいよ神が子どもたちの前に姿を現します。少年の姿をしたひばりという神は、人類を超越した力を持っているため愉快犯のような人を食った態度をとります。しかし供犠のようにされている姉神には強い思い入れがあるらしく、その話題になると感情を露わにします。
この少年神は、煌四や灯子をこのように評しています。

「お前とあの村娘はおもしろいな。お前たちは、ここがいかなる世界かを知ろうとしている。どうにかたすかろうとあがくのでもない、破滅を望むのでもない。この世界がいかにあるのか、ただそれだけを知ろうと、強く思っている。」(p237)

日本の児童文学はディストピアものの傑作をいくつも生み出しています。それは現実のうつしえであり、その先には少年文学宣言的な変革の意志が想定されていたはずです。そこをあえて外し、知るということへの欲望のみに注目したというのは独特な視点にみえます。もちろんこれは作中の一登場人物の発言に過ぎませんし、実際の灯子の行動からは火狩りの王を誕生させることによって現状を変えようという意志は感じられます。この発言の真意はどこにあるのか、気になります。

『あららのはたけ』(村中李衣)

あららのはたけ

あららのはたけ

「雑草はふまれるとな、いっぺんは起きあがるけど、もういっぺんふまれたらしばらくはじいっと様子見をして、ここはもうだめじゃと思うたら、それからじわあっと根をのばして、べつの場所に生えかわるんじゃ」
(p16)

横浜から山口に引っ越して、畑いじりをしたりと慣れない田舎ライフをことになった小学4年生のえりと横浜にいる幼なじみ3人組のひとり親友のエミ。ふたりが交わす手紙の形式で描かれた書簡体小説です。
えりの心残りは、幼なじみ3人組のもうひとりのけんちゃんのこと。文通が進むにつれて、けんちゃんになにかがあって今はひきこもりのようになっているという情報が読者に開示されていきます。
冒頭に引用したような生き物雑学がたくさんあって楽しいです。主人公のふたりは知的好奇心が強く、疑問に思ったことは自分で調べて生き物の生態を論理的に理解しようとする姿勢を持っているところが好感度高いです。
もうひとつおもしろいのは、人と人を繋ぐ回路の描き方です。離れたふたりをつなぐ文通という手段はやや古風です。そして、閉ざされているけんちゃんの部屋の扉には、猫用*1の小さな扉がついていました。そこに足をつっこむところからはじまり、いろいろなものをつっこんで、関わりを求めていきます。こうした小道具の使い方がうまく、さすが手練れの技という感じがします。

*1:この猫の名前も「与作」と古風でおもしろい。