『こそあどの森のおとなたちが子どもだったころ』(岡田淳)

2017年に完結した「こそあどの森」の番外編が出ました。森の住人たちと再会をはたせたことに、感謝しかありません。では、この感謝はなにに捧げればよいのか、それはカバーイラストで明らかなようにカメラです。つまりレンズとシャッターです。レンズとは見るもの、シャッターとは光を取りこむものです。
トワイエさんから借りた本に彼の子ども時代の写真が挟みこまれていたのを発見したスキッパーとふたごは、トワイエさんからはじまり森のおとなたちの子ども時代の話を聞いてまわります。
トワイエさんの話は、図書館が本棚に囲まれた別世界に変貌するというものでした。そこでトワイエさんは、お姫さまが行方不明になるという事件に巻きこまれます。しかしトワイエさんが昔話の本で読んだような展開にならず、予想は常に裏切られます。こうした物語のお約束外しは岡田淳の得意技、コンパクトなジェットコースター展開で楽しませてくれます。
トワイエさんの物語は、図書館と本という友だちとの出会いという側面も持っています。他の住人も、かけがえのない友だちとの出会いを語ります。トマトさんは植物妖怪(?)、ギーコさんは木、ポットさんはサーカスの風船男、スミレさんはギーコさんとは別の木。かけがえのない友は、人でも人でなくても、現実の存在でも超常的な存在でもイマジナリーな存在でも、すべて等価であるとされています。
そして、出会いは別離とつながっています。このなかで関係が続いているのはトワイエさんと本だけで、ほとんどの住人は友だちと別れてそれっきりになっています。永続的な関係という幻想を求めず、それぞれの孤独を豊かに描いているところが、このシリーズらしいです。

『夜明けをつれてくる犬』(吉田桃子)

美咲は言葉を口にだすことが苦手な子。唯一の友だちであった犬のレオンを亡くしてから、うまくいかないことの多い彼女の日々はさらに暗いものになりました。しかし、生花店でレオンにそっくりの犬と出会ったことから美咲の運命は少しずつ変わりはじめます。
いままでの吉田桃子作品のイメージとはかなり異なる、作品世界の張り詰めた空気にヒヤリとさせられます。ただしその緊張感は、美麗さも伴っています。「友だちがいないままおとなになったひとなんて、この世の中にいるのかな」と幼いころから思い悩んでいた美咲を救っていたレオンの不在は美咲の世界を停滞させ、未来への不安で押しつぶしそうになります。学校での目下の美咲の悩みは、卒業式の「おくる言葉」、それも美咲のために配慮されてかなり短くされた「記録更新をめざした水泳大会」という文句が言えないというもの。家庭での悩みは家族が新しい犬を飼いたいという意向を示しはじめたこと。どちらも未来の見えない美咲には大きなプレッシャーになります。
そんな美咲がもろもろを乗り越えて発した言葉があの問いであったことは、とても美しいと思いました。

『ママたちとパパたちと』(グンネル・リンデ)

1976年のスウェーデンの児童文学短編集。家族と性の多様性をテーマにした作品が並んでおり、その問題提起は現代でも通用するものになっています。が、子どもが軽はずみに魔法を使ってしまう作品世界で展開される奇想は飛び抜けたものになっているので、社会風刺としてのみ理解するのはもったいない作品集になっています。愉快なナンセンスファンタジーとしても読まれるべき作品です。
第1話の「トンボちゃんのつくったママたち、パパたち」は、「お父さんもお母さんも"はじめからなかった"」女の子トンボちゃんが主人公。広いマンションで暮らしていて、家具たちは自分から住まわせてくださいと要求してやってきたので、なかなか快適な生活をしていました。でも、自分にもお母さんとお父さんがいてもいいのではないかと思ったトンボちゃんは、魔女さんに電話して親の製造法を聞き出し、自分でつくろうとします。
子が親をつくるという転倒もおもしろいし、電話で魔女に連絡するという近代と魔法の世界の混交もおもしろいです。トンボちゃんはレーズンでできた小さなお母さんをふろおけに入れます。しかしお母さんが気に食わないことを言ったので、お母さんのおなかを割いてしまいます。するとおなかのなかからさらに小さいお母さんが現れます。そのお母さんもトンボちゃんのお眼鏡にかなわなかったので、さらにおなかを割くと、さらに……と、お母さんのマトリョーシカ状態になります。暴力的でグロテスクでありながら笑える光景に呆然とさせられてしまいます。
第4話は男子がママになるという、これまた政治的に正しそうなネタの作品です。ラッセが産んだのはクニッケディックというモンスター赤ちゃん。ラッセママは赤ちゃんのために児童手当を要求するほどしっかりしていましたが、クニッケディックに与えるせきどめシロップの入手にそれなりに苦労します。しかし最終的にはすべてがうまくいき、「ママになるって、最高だな。超能力の子どもを生めば」というなんとも気の抜けた感想を表明して終わりになります。
そのほかにも、子どもが魔法で両親をペット化する話とか、ママが竜に変身する話とか、どう反応していいのか悩んでしまうような話が並んでいます。

『晴れた日は図書館へいこう 夢のかたち』(緑川聖司)

角野栄子の「魔女の宅急便」シリーズや斉藤洋の「ルドルフとイッパイアッテナ」シリーズなどのように、忘れたころに新刊が出るゆったりペースが許容されるところが児童文学の世界の美点のひとつです。でもこの「晴れた日は図書館へいこう」シリーズのように、21世紀デビューの作家のシリーズがこのような売り方を許されるケースは稀です。シリーズ1巻は小峰書房から2003年刊行、2巻は2010年。その後2013年に1,2巻がポプラ文庫ピュアフルで刊行され、ポプラ文庫ピュアフルが路線変更して児童文学寄りの作品は出にくくなったこともものともせず、新作3巻はポプラ文庫ピュアフルから刊行されました。このことも異例の扱いであるように思えます。
そもそも緑川聖司のデビューは図書館を舞台にした日常の謎ミステリである『晴れた日は図書館へいこう』だったので、当初はミステリ作家として期待されていました。しかし現在では、ポプラポケット文庫の「本の怪談」シリーズを代表作とするホラーの第一人者としての地位を確立しています。とはいえ、この作家の本質を理解するためには、やはりデビュー作シリーズを参照する必要があります、

「読み聞かせは読む人だけではできないでしょ? 聞く人がいて、はじめて読み聞かせになるんだから、それが上手に成功していたのなら、それは聞く人のおかげでのあるのよ」

3巻では、読み聞かせについてこのような思想が語られます。ここにあるのは、発信者と受け手の相互作用が重要であるという思想です。「本の怪談」シリーズにおいても、奇妙な本とその読者の相互作用、怪異と被害者の相互作用によって物語が展開されます。そしてシリーズ最終巻『伝染する怪談 みんなの本』では、その相互作用が極限まで高まってある意味で究極の愛を実現するという、感動的なフィナーレをみせてくれました。これは、物語(怪談)と本を深く愛する緑川聖司ならではの思想です。この思想が緑川作品を読み解くうえで重要な鍵になりそうです。

わたしは怪談こそ、この世のすべてだと思うの。
怪談には恐怖があり、感動があり、生と死がある。
しかも、それを大人にも子どもにも伝えることができるのよ。
(『伝染する怪談 みんなの本』より)

緑川聖司は児童文庫のホラーを主戦場とし、賞レースとは無縁で児童文学の脇道を歩んでいます。一方で、デビュー作シリーズの「晴れた日は図書館へいこう」は、往年の名作児童文学のような愛され方をしています。非常に珍しい立ち位置にいる作家なので、もっと語られるべきだと思います。

『ぼくが消えた日』(金重剛二)

1974年偕成社刊。SFなのか不条理ものなのか判然としない奇妙な作品です。
主人公の道雄が「少年の科学」という雑誌の反物質に関する記事を読む場面から、物語は始まります。道雄はじぶんとそっくりな〈反ぼく〉と出会ってしまい、なぜか公園のベンチに変身してしまいます。冒頭から全くわけがわかりません。道雄はベンチを燃やしてけむりになればここから脱出できると考え、近くにいた少年に放火するよう依頼します。この道雄の発想の飛躍と肝の据わり方も異様です。
けむりになった道雄は、雲を高額で売り買いする雲男爵なる怪人物に狙われます。かと思えば、唐突に巨大なカタツムリが登場。煙から氷になり水になった道雄はキンモクセイに吸われ、キンモクセイになります。ここで植物学博士のダブル先生なる怪人が現れ、キンモクセイから道雄を取り出す手術をすると言います。怪人の登場と怪奇現象が続いて大忙しで、読者は物語に振り落とされないようにしがみつくだけで精一杯になってしまいます。
状態変化を解説する理科読み物の意図もあろうかと思いますが、それにしては隙があります。むしろその飛躍しているところが子どもの発想にあっていて、児童文学としてはふさわしいのかもしれません。昔の児童文学は意味不明な突破力があるから、掘るのをやめられません。

『ひかりの森のフクロウ』(広瀬寿子)

ひかりの森のフクロウ

ひかりの森のフクロウ

かすかな音がした。
木や草が、まるで森のように茂った庭。その庭のおくにある小さな家の中で、音がした。
古びたその家には、だれも住んでいないと、哲は思っていた。でも、たしかに家の中でだれかが歩いている。

冒頭のたった5行で様々な予感を読者に持たせ、物語の世界に引きこむ手腕が見事です。
哲は兄と一緒に、近所にある深い森を舞台にした文字のない絵本を作っていました。その絵本の最後のページは、ひかりがいっぱいの様子が黄色で塗りつぶすというかたちで表現されていました。しかし哲は、その仲のよかった兄と離れてしまい、喪失感に苦しんでいました。そんなときに、友だちの島ちゃんの親戚で「森もどき」の家で生活することになった文平おじさんと知り合います。
文平おじさんも哲と同じように、兄弟を喪った痛みを抱えて生きていました。ただし文平おじさんはひとつの場所に定住しない人で、良識とされる側からは不審者扱いされかねない人物でもありました。あろうことか文平おじさんを哲に紹介した島ちゃんが、文平おじさんは「ちょっとおかしい」からあまり会いに行かない方がいいと言い出すようになります。しかし児童文学の世界では、こうした周縁にいる大人の方が傷ついた子どもの心に寄り添えるものです、
哲と文平おじさんの境遇の重なりあい、ふたりの子どもの時間と大人の時間の重なりあい、深い森と森もどきの重なりあい、絵本の幻想の世界の森と現実の森の重なりあい、さまざまな多重構造が作品に厚みを与え、奇跡のようななにかを導き出していきます。
情感のある風景描写も相まって、非常に美的な佳作になっています。*1

『銀河へのエレベーター』(金重剛二)

1971年理論社刊のSF児童文学。タイトルにある、デパートのエレベーターが宇宙につながっているという奇想は楽しげですが、内容はなんとも不気味で暗い侵略SFです。
まず、主人公の造形からして暗いです。小学6年生の幸平は、心臓弁膜症のため体が弱く、いつも口を開けてよだれを垂らしているという設定になっています。この幸平と歯医者の息子でクラスの委員長の兵吾の二人組が主人公となります。クラスの不良グループの生徒がなぜかみんないい子になってしまい、二人組が不良グループは宇宙人と入れ替わっているのではないかと疑惑を持つところから、物語は始まります。
宇宙人が正体を現す場面の場面の迫力はなかなかのものです。二人組は、夜8時に不良グループの集会をのぞき見します。集会場所は映画館の隣の狭い隙間で、彼らは影のような黒い姿に変貌します。映画館でやっている西部劇のセリフが漏れ聞こえてくるのがよい演出になっていて、緊迫感が増しています。
その後不良グループのリーダーも候補として名乗り上げたクラス委員選挙がおこなわれ、学校内政治の闘争という側面もみせてきます。兵吾は50人のクラスメイトを統率することに真面目に使命感を持っていました。現在の学校の地獄感とは異なりますが、ここにも当時なりの地獄があるようです。

イラストは大古尅己。70年代から80年代の児童文学ではよく見た絵柄ですが、子どものころはどちらかというとゆるい画風だと思っていました。ところが、あらためて見てみるととんでもない。像のゆがめ方や背景の処理がスタイリッシュで、とてつもなく怖いです。